彼方からの閃光#4

「ぅわわわわー、そっ、それ待って下さい!」
「わはは、それは待てないよ。大体もう君、何回それやってるの?」
「や、ま、それはそれとしてですね、今は待って下さい、イヤホントに待ってくれないと困ります。」
「イヤ僕は困らない、待つと困る。」
那須秀夫少佐がパンと手を打ち合わせて平身低頭するのを胸を張って下目使いで見やって、自信満々、新実史郎軍医中佐は大きく笑った。その場で将棋盤を覗き込んでいた数人の看護兵は、その様子を笑いを押し殺しながら二人のやり取りを見ていた。
軍医は白衣に似合うロマンスグレーの頭を掻いて笑いながら将棋盤の駒を元に戻した。
「しかたないなぁ。那須さん、もう、ホントにもう今回だけだよ。」
「いやいや、軍医殿におかれましては、えー、何度でも待っていただかなくては不肖那須秀夫、非常に困るであります、ハイ敬礼。」
「もう、それじゃ、那須さん勝負にならないんだって。」
新実は、そういいながらも再び将棋盤の上の”ト金”をひっくり返して“歩”に戻した。そして既に指先で数えるように次のコマの動かしを計算して、やがてふんふんとうなずくと腕を組んで「那須さんの番だよ。」と促した。こうして4,5回応酬するたびにすぐに那須は待ったをかけてくるのもお見通し、人の良い那須少佐の反応が面白いものだから新実はそれを計算に入れて将棋に興じているのだった。
一手二手三手とそこそこ速い打ち方で二十も打ち合ったろうか。これでナカナカどうして、那須少佐も将棋は強くて実は段持ちなのだ。しかし、再び「王手!」と掛けられて、「ま、まったまった!」
ふははと高笑いして新見は「もうこれくらいで終わりにしよう。」と言い出して、駒をざらざら片付け始めた。
「あー、もう少しだったのになぁー!」
那須少佐は、やや不満そうに目から口までくしゃくしゃに顰めて、腕組みして駒が片付けられるのをじっと見ていたが、はーとため息をついて大きく背伸びをしてすぐ横の舷窓へ視線を移した。
開戦後の竣工であった「伊吹」は、戦訓による水密対策と対ガス対策の一貫から船体での舷窓の数が非常に少なくなっていた。もちろんその分、各部における給排気設備は、行き届いているのも言うまでもない。それでも医療室は優先的に舷窓が開いていて、その数は五つ有った。
「おっ!あれあれ!「大和」ですねぇ。」
今、無邪気に那須少佐が指し示した。その舷窓の向こうに黒い軍艦の影がいくつか見え、中でもひときわ目立つ大型の艦船が遠いながらもこちらに反航して白波を蹴立てているのが良くわかる。
「格好いいですねぇ!男の船ですねぇ!やはり沖縄殴り込みには「大和」こそもっともふさわしいですねぇ。」
那須少佐だけではなく、その場の看護兵達もほほうと見惚れている。「大和」他の軍艦は、今丁度転舵し真横を向いた。やがて艦尾を向けつつ高速で遠ざかり始めている。
しかし、新見軍医はあまり面白そうではない顔をして背中越しに首を回して、しらけた表情で眺めやっているのだった。
「ふん、砲戦を目的とした戦艦というものが、既に存在意義を失っていると言うのに、大艦巨砲主義で頭が固い連中は、あんなものを作り国民の貴重な血税を浪費して、結局その上こんな馬鹿げた作戦を考え出して。」
将棋の駒は既に桐箱に納め、それを折り畳みの板に重ねて両手で持った新実は、、腰掛けていたベッドから立ち上がった。そして、そのまま外を見ようともせず、那須が感心しているのを咎めるように言った。
「いいかげんあんなものを崇拝するのはよしたほうが良いよ、少佐。」
軽く吐き捨てるように呟くと、将棋一式を医療器具の並んだ戸棚の扉を開き、その一角深く入れると、再び扉をタンと手荒く閉じた。
「軍医殿のお気持ちは良くわかりますが、艦船の御研究をされているのにどうも「大和」には冷たいのでありますね。」
那須はちょっと残念そうに苦笑した。すると新実は大きな声を上げてそれを否定した。
「いやいや、「大和」を嫌っているわけではないよ。ただねぇ。。。。」
新見は白衣の皺を伸ばそうと両手でぱんぱんと払ってから今度は舷窓へと歩み寄って、屈んだ姿勢でのぞき込み、窓枠のクリップに手を掛けて、舷外の遠くに見える艦隊をしばらく見つめた。数十秒無言で見つめていたが、不意に体を翻すと反対側へかつかつ歩み寄って、背の低い「劇薬」と書かれた戸棚から髑髏のマークが入った大振りな1リットルの茶色の広口ビンを乱暴に取りだした。そして眼光鋭くぎろりと那須をにらむと、あごをしゃくって那須を自室へ来るように促した。

那須さん、ちょっとした人体実験をしたいんだが。。。付合ってくれるでしょ。」

「ぇ!軍医殿、それ、なんですか?いくら変なものに興味ある悪食の私でありますが、いくらなんでも毒薬はご勘弁願いたいですな。」

ちょっと、引きつった顔で途方にくれるように『まずい事言ったかなぁ』と内心、ひとりごちる那須少佐であった。まさか「大和に冷たい」なんて言ったからといって、自分にお返ししようって魂胆じゃないでしょうなぁ。
医務室に隣接する軍医の部屋に入ると、その壁という壁に所狭しと古今東西の艦艇艦船の資料と書籍が並んでいる。墜ちてきたら大変なので、「伊吹」きっての器用者 鈴木掌帆長の手によるその本棚は、棚板下端に厚めのストッパー板がついている他手前に押し下げると取り出せ易いように工夫された本押さえの板がついている。それでも海が荒れたら本は、床といわずベッドといわず埋もれて新見は就寝中にそれをやられて本の海におぼれそうになったことが数度あった。
その度にその隣室に陣を取る那須は呼びかけられて、頭まで埋まった新見の体を引っ張り出すのに苦労するのであった。
「少佐、その扉を閉めたまえ。」
怪訝そうな那須を尻目に新実は一番奥の机へと進み、ちらりと扉の閉められるのを確認すると広口壜をことりと机に下ろし、おもむろにストッパーを外して壜の蓋を開いた。そして再び壜を取り上げると、部屋の中央で立ち尽くす那須少佐の目の前にやってきて、壜差し出した。
「少佐。これを嗅ぐんだ。」
不気味な薄笑いを浮かべて新見軍医は、非常にゆっくりと壜を目の高さまでかざしてゆき、ググッと壜の口を那須の鼻の前に突き出した。那須は泣きそうな顔になって、両手で壜を押し返そうとし体を後ろへ仰け反らせて叫んだ。
「わわわ、か、勘弁してください、すみません、申し訳ない、お詫びいたします、ごめんなさぁ」
「しっ!静かに静かに!」
慌てて新実は一本指を唇の前で立てて、安心しろというようにそれを震わせながら那須の肩を掴んだ。
「ぇー!やだよー、殺さないでください!」
「誰がそんなことをするというんだ!全く君は何年私と付き合っているのかね、そうおじけなさんな!がははは。」
新実はそう哄笑すると、左手を腰に当て広口壜をぐびりと飲み込んだ。
「おわわわわ、軍医殿!ハヤマッテはなりません!奥さんが泣かれてしまいますぞ!」
「嗚呼人情溢れる本艦きっての人徳者!ご心配ありがとう!」
実に美味そうに『毒薬』を飲んだ新実は、広口ビンを机に降ろし、口を拭った。
「少佐、これを嗅いでみてよ、まぁ、いいから。」
「えっ!」
差し出された壜を恐る恐る嗅いでくんくんしてみると
「おー!こりゃ、極上の麦焼酎っ」
「でしょでしょ!」
まさかの であった。
「まだ、五〇本くらい劇薬庫に厳重保管してあるんですよ。呉でね、ちょいとね!」
にこにこと笑って新実はあっけらからんと秘密を打ち明けた。そして瓶を那須へ手渡しし、自分は机の上の戸棚から二個銀色のコーヒーカップを取り出しそれを机に並べた。
那須は以心伝心、すぐにカップに劇薬を注ぎ、目一杯になると瓶をそっと机に置いた。劇薬がカップの中でゆらりと煌めいて、芳醇な芳香が口から広がるのが目に見えるようで、鼻の奥をくすぐる。
「少佐はどう思ってこの巡洋艦で働いているのか知りませんが、私は少なくとも死にたいと思っていないですよ。もう、人類が破滅しても健康には気を使っておこうと思うな。」
新実は那須にカップを取り上げるように進めると、自分もそれを口に持て行き、一口ぐびりと飲み込んだ。そして改めて那須にベッド脇の予備の椅子に座るよう手で促し、自分は机の前に腰掛けた。
二人は無言で一口二口と劇薬を飲んでいると、ふいに新実が口を開いた。
那須少佐、どう思う。ん。私はこの一見、訳の分からない特攻作戦が良く理解できる。無いものを精神力で補う、そう言う単純な幼稚な発想だ。しかし、ドンキホーテ的なこの行動は、今想えば原初から避けうるものでもあったわけだ。それが出来ず無駄に命を落とし貧困にあえぐ我が国の民草を磨り潰して、自分の保身を優先にしていないとは言い切れない輩も含めて愚臣に操られてしまった責任は誰にあるんだ。陛下か陸軍か海軍か?いや、誰あろう全国民だろう。冬はすきま風吹きすさぶあばら屋に住み、乞食同然の姿でろくに取れもしない田畑で働き、しまいにゃ人売りに女子供を欺されて買われて、売られた娘は奴隷のように扱われて過酷な労働にあえいで最後は結核か白い木箱に収まって帰ってくる。陸軍の莫迦どもはむやみやたらと威張りチラして国民に嫌われそれを押さえるのに躍起、満州やらビルマやら補給もろくに考えない戦争をごり押しする。餓えに苦しんでマラリアや赤痢に苦しんでウジ虫の餌食になってのたれ死んで行く兵隊にそれを勇敢だと歌う歌謡曲、エライ奴らは後ろで兵隊に笑って死ね死ねと言って憚らず、前線に行かせて自分たちは背中であっかんべーして後方で兵士がくたばるのを見守る。行く奴も行かない奴も実に阿呆ここに極まれりだ。」
段々と大きな声で罵り始めた新見を唖然と見ながら那須は「まぁまぁ」と外に漏れていないか心配した。そして途方に暮れてきた。そうなのだ。異常な事態であることを認識しているのに、我らは嬉々として死地に赴いてきたのだ。武人はそういうものであるともちろん想うが、それにしても軍医の言う事実は紛れもない。
そう一気にまくし立てると立ち上がって天井に眼差しを向け胸に手を当ててこう言った。
「Hateful is the darl-blue sky!Vaulted o'erthe dark-blue sea! 死こそ人生の終わりだ!嗚呼何故に人生は苦労ばかりなのだ!かまわないでくれ!時は剰りにも速く過ぎゆき唇は目して語るに足りず。かまわないでくれ!言った何が続いてくれるというのか!一切が我々から奪われ所詮恐るるべき過去の一欠片になるのだ!邪悪と相争っても何の楽しみがある?山成す大波といつまで闘えば安らぎを得るというのか?!」
静かで大きな声ではなかったが、迫力のある良く響く声だった。そして那須の顔を見つめて更に続けた。
「万物には休息が訪れやがて無言のうちに熟し墓場へと向かう。成熟し落下しそして命果てるのだ。
与えておくれ!永遠の休息あるいは死を、暗黒の死を!あるいは。。。」
新実は目を見開いて最後の言葉を噛み締めるように鳥肌が立つような小声で囁いた。
「夢見るごとき安楽を。」
一瞬、静寂が二人を包んだ。新実は再び椅子に腰を下ろして那須の顔を見ている。感極まった那須は新実を尊敬の眼差しでホレボレと見やる。
テニスンですね。」
「おー、さすが学識豊富な栄えある帝國海軍士官、那須秀夫少佐、よく御存知だ。優秀優秀」
二人はからからと笑いあった。
すると部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「入れ!」
「失礼致します!軍医!!怪我人です。お願いします。」
看護兵が目を白黒させながらドアの外へ促している。
「まだ、戦闘開始していないだろうに。」
新実が那須少佐をともなって出て行くと、そう広くもない治療控室には七,八人の水兵が担ぎ込まれたばかりで床にうずくまっていた。いずれも額と口から血を流して苦しそうに呻いている。
「なんのざまなんだ!」
那須が見かねる惨状に厳しい口調で問いただした。
「ケンカであります。」
「艦長には?」
分隊長には御報告しました。艦橋に往くとおっしゃっていました。」
小柄だががっちりした体の西野兵曹が若干うわずった声で答えた。
「たまたま左舷高角砲甲板で待機中、戦艦大和が見えましたところ、馬場上等兵が興奮して’自分たちはアレに続いて死ぬんだ嬉しい’というようなことを叫んだところ、中村一等兵がそれをくだらないとくさしました。すると馬場が逆上し二人が掴み合いはじめて、それを切っ掛けにその場の十数人で大乱闘が始まってしまいました。で、御覧の通りです。」
奥まったところで座り込んでいる、顔面を血だらけにして白目だけがそこから見えている太り気味の水兵がそれを聞いて叫んだ。
「帝國海軍の軍人たるもの死ぬことを恐れるような性根の腐ったような者は、海に投げ捨てて鱶の餌食にしてしまえ!」
すると手前で転がっていたもう一人のすらりとした背の高い水兵が息も絶え絶えながらに怒鳴り返した。
「ふざけるな!はぁはぁ。貴様のような考えで、はぁはぁ、闘って何の意味があるんだ、馬鹿馬鹿しいっ!」
彼は再び上体を起こそうとしたがなしえずに崩れて、ぶきらぼうに吐き捨てた。眼光だけは鋭く光っているが、左も右も目が腫れ上がっていて西洋のお化けのようだ。
するとそれを見た那須はつかつかと水兵に歩み寄ると平手打ちしてにらみ据え恐ろしい咆哮で怒鳴った。
「だまれ!怪我人は怪我人らしくしおらしくしておれっ!
全くこれから大事なときに無益な体力を消耗しおって。」
那須少佐が項垂れた兵曹長に向かって苦言を呈している。
内心、先ほどまで劇薬を楽しみつつ似たような会話をしていた新実としては、水兵に同情を禁じ得ずに苦笑するしかなかった。
新実は看護兵に怪我人たちを奥へ運ぶように指示し、自室に戻り手早く白衣の前ボタンを閉じながら聴診器を取り上げた。
ふと舷窓の外を見やると先ほどまで見えていた大和の姿は既に無く、波浪の飛沫が窓枠で濡れて光るガラスの向こうに茫洋とした波の高い海面が広がるばかりであった。「伊吹」は右にやや傾いているようで、大きく転舵しているのだろう。そういえば、あの小さな装甲された一室に居る少女はどうしただろう。もう彼女は我々をその”能力”で笑って見つめているかもしれない。朝食を共にした直後、定時検査をしたが全く平常であった。歳の割には大人びてはいるが華奢で愛らしい藤原准尉は、新実にしてみれば娘のような感じであった。軍艦には不似合いな彼女の不幸な?いや幸運な?境遇は、何と言えばよいのか。彼女が超自然的な存在であることに、リアリストの新実にはいささか簡単に認めにくいものがあるのだが、結局のところ現実に彼女の能力を目の当たりにすると認めざるを得ない。この世には自分の知る医学的な知識では量りし得ないものもあるのだなとその手の脈拍を数えていると感慨深いものがあった。実は新実軍医には東京に残した一六と一八になる娘が二人いた。三人目がいれば藤原准尉くらいのことだろう。その三人目は死産となりこの世に生を受けてこなかった。
看護兵が半開きのドアの隙間から首を出した。ノックが聞こえなかったが、思いに耽っていたので、聞き逃したのかも知れない。
「軍医。そろそろ。。」
「お、今往く!」
通り抜ける控室に那須大尉は既に居なくて、羅針艦橋へ往く前に受け持ちの後部艦橋に向かっていたのだろう。
ひらりと軽やかに身を返して新実軍医はドアを開けて治療室へ入った。