彼方からの閃光#5

 戦闘準備に追われる水兵が駆け回る艦内を足早に抜け数度タラップを駆け上がり、息を切らしてたどり着いた後部艦橋には、応急準備に渡邉副長が来ていて、那須の顔を見るなり莞爾として訳をやんわり問いただした。
「高角砲長。なんだ、どこ行ってたの。」
まさかこの緊急の時に、何処吹く風とのんびり将棋を打っていたとは言えないので
「医務室で胃散を貰っておりました。砲術長と主砲が活躍している間は自分とこの高角砲で腹を押さえて待って居なきゃならないですからね。」
那須は苦笑して、入口脇に備えつけてある腰の高さくらいのロッカーから双眼鏡を取り出し、首から下げた。那須の麾下、高角砲群は十四群あるのだが、実際のところ各部は独自に体制を整えていくから、放任主義の那須は何時も高角砲台長に任せきりであまり忙しく立ち回らないでいられた。それも知ってのことで「ふうん」と微笑みながら渡邉は唇を妙な具合にゆがめていたが、それ以上深く追求もせずにすぐ話題を変えてきた。
「なにか面倒があったみたいだね。さっき第一分隊長が艦橋に謝罪に来ていたよ。」
副長は概ねのことは知っているようなので、特に些細な事件を解説するまでもないだろうと想った那須は、さらりと流すことにした。
「まぁ、血の気の多い奴らばかりですからねぇ。先ほど自分も治療室で出っくわしました。貴重な戦闘要員が八名ほど駄目ですよ、全く。」
互いに苦笑する。気を取り直して那須が窓枠から外を見ると三番砲塔の赤錆色に光る67サンチ砲の太い砲身がにょっきりと天頂を指して突き立っていた。やがてするすると音も無く砲身は下がり、そのまま砲塔がすぅっと左右に回転運動を行った。
 その向こうに零式水上観測機いわゆる零艦が三機係駐して整備兵が忙しく立ち働いている。いずれも作業甲板で運搬車に載せられているが内二機は立ち回ってカタパルトへ載せ替える作業を、そしてもう残る一機は艦尾搬入口へ押し込もうとやっきになって作業している。もたもたしていれば、弾着観測に間に合わないし、砲撃になれば水上機などブラストで吹っ飛んでしまうのだ。とは言え、露天甲板は強風がまだまだ吹きすさんでおり整備兵は作業服をビリビリと震わせて体を吹き飛ばされないように身を縮こませて踏ん張りつつで、あんまり見ていて心配ないようなものでは無い。
 三番砲塔はそれには関せず相変わらず頻繁に砲身を振り上げたり砲塔を回転させたりしていて、なにか踊りでも踊っているようでやや滑稽な有様にも見える。
「三番砲塔の砲側照準装置類の不備が直ったんで連動テストしている。概ね良好だ。もう問題ないだろう。」
渡邉は那須の肩越しにちらりと見やって、それから腕組みをして窓の前に立ったが、間髪入れず横から伝令兵がばっと駆け寄り、敬礼した。
「副長、発令所です。」
伝令が受話器を差し出した。
「渡邉だ。ん?あ、そうか。んんん、判った。艦長?ん〜、とりあえず人間が確保出来たら俺から上申しておく。貴官は今目前の戦闘に心を払ってくれ。ん、うんうん、わかっているよわかっているよ。うんうん。。」
怪訝な顔をして渡邉は受話器を元に戻し、やぶにらみで天井を見ながら何かを思案しているようだ。
「どうしました。」
「藤原准尉の事で弾道管制室の今井君に補佐を付けたいとから要求があった。戦闘中は機器類が不安定になるのは避けられないので応急要員を至急三名配置して欲しいと言うんだが。」
そこまで言うと再び窓へ歩み寄り、腕を組んで海上を見た。先ほどまで動いていた3番砲塔の砲身は艦尾を向いて固定位置に戻っている。
 すると、轟音を立てて零艦が左右のカタパルトから次々と打ち出されて、すぅっと水上へ飛び出していった。この後部艦橋は前部艦橋ほど広くなくて窓は六十サンチほどの間隔を開けて同じく幅六十サンチ高さ四十サンチの大きさで十箇所ほど開口している。二人が佇んでいる中央やや右舷側窓からだと向かって左側すなわち右舷の零艦だけが飛んで行くのが見えた。海上は波がまだ高いので、操縦士はさぞかし度胸が要ったろう。三つ有るフロートの真ん中、大きなメインフロートは数回波頭を弾いて、その都度機体がバウンドするのがわかったが、すぐに揚力をものにした零艦は、ふんわりと急上昇をはじめてフロートから飛沫を少しの間、たなびかせながら高速で中天高く飛翔し、やがて小さく黒い点になった。零艦は、弾着観測のために敵戦闘機に攻撃されることを覚悟して、決死の観測飛行へ赴いたのだ。敵編隊第一波攻撃時、最初の観測機二機は戦闘終了後も無事ではあったが、戦闘中なので「伊吹」に戻らずに後方の九州・鹿野へ帰投している。第八護衛戦隊全体を見れば「伊吹」「鞍馬」「富士」の各艦八機の零艦がいるので二機ずつ飛ばしても通算十二回飛ばすことが出来るわけだが、戦闘航海中は母艦に戻ることはほとんどあり得なく、もし洋上で回収作業を行えば、敵攻撃機はおろか敵潜水艦の素晴らしい御馳走になってしまう。言わば偵察機は、一度発艦射出したら帰投は出来ない消耗品と言うべきものであって、これは連合軍も帝國軍も事情は空母以外の艦載機において全く同じ事情である。もちろん飛行甲板を持つ空母なら高速航行中でも帰還可能だが、今、この”いくさ”では帝國に活動出来る空母は無く上空直衛機は皆無、九州に控えている陸上機は全て特攻機として爆装していると言っても過言ではない状態であった。
「とりあえず、特殊な部門だからなぁ。」
ふうと鼻から息を抜いて肩を落とし渡邉は伝声管に腕を突っ返させ窓の外へ視線を迷わせた。荒れた海に高速発揮中の本艦が盛り上げる波飛沫が艦尾付近でまるで生き物のように、白くぶくぶくと大きな山を作って次々に向こうへ追いやられて、流れさるのが見える。
「常日頃、今井君は余計な精神負担は藤原准尉にかけたくないので彼と技術兵二名で満足していると言っていた。先日の士官会議でも特にその件で不安を言われていないし、実際、装甲されたあの区画の周りに発令所も近いから百名近く傍に要員が居るわけだ。
しかし、高柳君からの話だと射撃指揮装置との連携で前回第一波迎撃で不安定動作が有ったのだというし。予備装置との連携には人員三名の今の態勢では、満足では無いというんだ。」
「高柳君のいうのも一理ありますが、今井君はどうでしょうねぇ。一応艦長に図ってみては。」
那須は高柳少佐と相容れぬものを日頃から感じていた。長身で筋骨逞しい上、非常に切れる男だしその高い技術力は神業と言えるほどのものがある。発令所長としても射撃盤などの複雑な機器をほぼトラブルらしいトラブルを見せず、「伊吹」の砲撃の心臓部を守っていてくれているのは、良く理解しているし正直舌を巻いているのも確かである。しかし、兵卒には非常に冷酷で失敗や命令不徹底などには恐ろしい鉄拳制裁を躊躇しないばかりか、半殺しにしてしまうようなことが多々あったし、同格で先任である那須などへもどこか莫迦にしたような態度が見え隠れする時があり、そう言う部分がどうにも鼻持ちならない奴だった。故に急で無理に近いその要求には、那須は何か気乗りしない話に想えた。
「もちろん耳に入れるけど、まー間違いなく汝の判断でヤレと笑っていわれるだろうなぁ。」
如才なく笑って渡邉は振り返りすぐ横で数名の水兵と何やら話し込んでいる歳めいた士官に声をかけた。
「運用長、どこか回せる人員はあるかな。」
ところが軽く吃驚した。角谷中佐がいつもと違うガラガラ声で答えたのだ。酒の飲み過ぎらしい。
「デンキシッテるヤズじゃないど上手くナイヨナァ?これガら戦闘だといヴのにゥチも通信科ボ人手無ヴィよ。工作長とゾゥ談ヒて技術兵二名を引ギ抜いデグるよーだネぇ。」
のどを時々くくっと咳払いしながら角谷は、まん丸の目玉を宙に迷わせて思案顔だ。工作科だって人手は無いだろうし、合戦数十分前にこの相談は乗れっこないものだ。なんでまた、高柳少佐は今頃になってそんな要求をしてくるのか、渡邉にも那須にも首をひねる内容である。
「ああ、運用長から話付けてくれる?それに高柳少佐のほうから一名出すそうだ。勘弁して貰うさ。」
渡邉はそう言いながら出港間際に肩を叩いて別れた少年兵たちを想いだした。彼ら四十名ほど降ろしてきていたので、今や本艦の定員二千名は割っている。そう、余る人手は全然無い。渡邉はかぶりを振って
「とりもなおさず今は合戦前だ。この件は敵を追い払って余裕が有れば処理しようか。」とひとまず話を納めた。
と突然警報ブザーが鳴り響き、ガーガーと艦内スピーカーが耳障りなノイズを吐き出すと、甲高い声が鳴り響いた。
「左舷前方敵機確認!!数二百 距離三十五 方位ヒトマル九十 総員戦闘用意っ!」
続いて景気よく戦闘ラッパが鳴り出した。渡邉も那須もぐぐっと身が引き締めて帽子の鍔をきゅっと引き下げた。
「少佐、ひとまず此処は宜しく頼む。自分は艦橋へ戻る。」
 そう言うとぱっと軽く敬礼してラッタルを颯爽と駆け下りていった。
すると運用長がにやりと不敵な笑みを浮かべて近づいてくると拳でぐぐっと那須の腹を突いてきた。
「悪いが此処で標的になってくれな。俺も下へ降りるよ。ククク。」
まるで子供のように悪戯顔で苦笑いしながら角谷はタラップの手すりにつかまってゆっくりと降りていった。
「お気をつけて。又お会いしましょう。」
 後ろ姿にパッと敬礼して、那須は別れを告げると、即座に支塔をくるりと回って左舷見張所に出た。そして双眼鏡を目に当てて、洋上遙かの敵機を探す。右手奥には「伊吹」巨大な誘導煙突がそそり立っていて、今驀進するのに過給状態なのだろう、強烈なブロアーの吸気する音が轟いていて、付け加えて身を切るような強風が吹き付けて耳をこごらせてしまうものだから、話し声もハッキリ聞こえにくい。くそっ、これには負けられないな!
「どぉれ、気合い入れるぞぅ!」
那須は居並ぶ見張員達に元気よくハッパをかけるように大声でひとりごちた。
 寒さとこれから来る戦闘への緊張で見張員たちも襟を立てて体を縮混ませていたようだが、大きく明るくて熱っつい那須のその大声は、小さな火のようにそこにいるもの達にほのかな暖かさを与えた。現にすぐ横の若年兵の頬には軽く赤みがさしたように見える。やっと二十歳くらいだろう、もう少し若かったら呉出撃時に降ろされていたかもしれない。那須は無言ではあったが微笑んで水兵の肩をぽんぽんと叩いた。誠にきちんと美しく折り目を立てたセーラー服の襟をぱさぱさと翻して、水兵は笑い返しばっと敬礼を返した。(おお、惚れ惚れする誠に帝國海軍水兵の模範のような若者だな。ウンウン)とうなずいて、再び高い見張所から洋上を眺めると、遙か南の空に雲の切れ目が大気の羊水を拡げるがごとく光線をきらきらと放ちだし、大きなうねりがぬめるような反射と暗く深い海の闇を対比させて神々しい舞台を拡げはじめている。我々が今向かうのはあの天使の梯子が導く、天上へなのだろうか。Hateful is the darl-blue sky!Vaulted o'erthe dark-blue sea!
いや、それに欺されるな、あれは神の落とす鉄槌がもたらされる予兆なのだ。見ろ、今、あそこから来るのだ、冷酷無比な空飛ぶ殺人者が。しかし、だがしかし『邪悪と相争っても何の楽しみがある?山成す大波といつまで闘えば安らぎを得るというのか?!』新実軍医が諳んじた詩の一節が脳裏に蘇る。
 眼下に見下ろせば我が指揮下の左舷高角砲群がその美しい華奢な、しかし凶悪な砲身を煌めかせて、殺人者が現れるであろうその雲間を睨んでいる。見とれているとぶわりと何かが振り回されるような音がして、その音の方向左を見れば、更に恐ろしげな六十七サンチの超巨大な砲身がやはり高角砲と同じく水平線を向いて、真っ暗な砲口を向けていた。
「伊吹」の装甲は、敵の急降下爆撃や雷撃には恐ろしいまでにひ弱であり、魚雷一発がどのくらいの影響をもたらすのか、考えるだに恐ろしいものがあった。これはもちろん後続する「伊吹」型巡洋艦二隻も同様である。
 もし重高角砲によるアウトレンジ砲撃で敵編隊を撃ち洩らせば、当然、近距離での対空戦闘は、自分が率いる高角砲群の仕事である。いかに性能が高い我が帝國海軍の誇る最優秀の長十サンチ連装高角砲といえども高射長・那須の一挙一動が「伊吹」の生命を左右するのだ。もちろん会敵すれば、全機撃墜をしてみせる自信はある、ありあまるほどある。艦首錨鎖甲板付近に2基、シェルターデッキ上に左右舷各六基計十二基、後部甲板4基、全合計十八基三十六門という恐ろしいまでに配置された長十サンチ高角砲は、正式名称を九八式十サンチ高角砲といい、対空射撃時の最大射程は一万八千メートル以上、毎分十九発の発射速度を発揮可能で、高射装置および射撃盤とあいまって非常に正確かつ強力な対空射撃を実現している。こと「まるで洋上の活火山」と言われるほどの「伊吹」の対空射撃による弾幕は過去のいかなる軍艦でもなしえなかった対空個艦防御であり、これを破ることは航空機にはまず不可能と想われている。そう、それは初期射撃からしばらくは。しかし、惜しむらく装填発射システムは半自動式であり砲弾および弾薬まず人の手で運ばれ次いでの砲尾までの弾薬運搬こそ機力自動であるが、装填架の乗せかえるのは再び人間が行う。そして、装填発射まで機械式に行われるというものであり、砲員各々のチームプレーと体力が試されるものだ。戦闘が長引けば、弾幕は所定の要領で厚みにならず敵機にその隙を付けねらわれてしまうだろう。その時は考えたくないがいつか来るのだ。最後の近接武器はおよそ頼りない口径二十五ミリの機銃群で、設計当初から「伊吹」のような巨艦を機銃で守りきれるとは到底考えられないと、その数は艦橋付近のごく限られたところだけに配置されて要るのみだった。実質、敵航空機攻撃からの最終防御は、高角砲群と、そして、こと「伊吹」に限れば類まれなる舵取り名人森下艦長の繰艦による回避だけということになる。
 しかし、それは森下艦長に言わせれば全くの杞憂であるという。艦隊防空をアウトレンジで敵編隊へ対空弾の先制飽和攻撃を行うという新機軸の発案は、現実に先ほどの第一波攻撃で如実に証明できている。艦隊が直径10キロメートル以内で展開していれば、敵編隊は洋上の点にしか過ぎない艦隊へどうしても目指してこなければならず、雷撃するにも各艦へ接近しないかぎりは無理である。想定される最大規模の編隊はおよそ千機と目されるが実際、指揮系統を鑑みて現実には半数の五百機であろう。乱戦で同士討ちの危険があるし、空母が無ければ補給無しで長時間の戦闘飛行は無理である。故にこれを数隻のアウトレンジ砲撃によって迎撃し寄せ付けない所に強力無比な砲撃力を持つ戦艦部隊を組ませられないかという発案のもとで「伊吹」は設計開発が進められた。その為には出来るだけ広大な飽和攻撃力を持たせねばならない。そこで前代未聞の六十七サンチ重高角砲と遠方探索用のレーダーいわゆる電探が開発されることになった。そして戦争の趨勢を決めるまでには結局間に合わなかったものの、今、その実現が試されている。入口ではそれはまずは大成功を収めた。
「ともかくも俺らの長十サンチ砲が火を噴かないままに戦闘終了出来れば幸甚だがなぁ。」
しかし腹の中では近接するような戦闘がないことを祈る那須ではあった。敵の姿が目の前にあるような戦いはあまり気分が乗らないものであったから。
「高射長、主砲発射につき各部砲煙防御せよとの命令です!」
後部艦橋室内から飛び出てきた伝令の声で我に帰り、「おお」と返事しながらハッチの中へと逃げ込むと、ぱたぱたと既に各窓には、パンチングメタルの鋼鈑が降ろされてゆき、爆風対策が終わると赤色灯で薄暗い中に各部ランプとメーターが輝いた。テレグラフは依然一杯を示している。
「第一高角砲塔部から第十四高角砲部の各部砲塔長へ艦内通話にて伝令下知せよ。内 容 、」
入りざま、那須は双眼鏡の接眼部を左手でぐっと握り、右手で軽く拳を握って凄味のある笑い顔で命じた。
「てめーら日頃の腕前、とっくとして見させてもらうぜ!打ち落とした奴は一機毎に沖縄で入湯上陸一人一日だっ」
薄暗い後部艦橋の中で大きな笑い声が沸き起こった。戦に勝って夢の上陸をものにしてやる、今、皆がそう想ったに違いない。

12時52分、「伊吹」ら第八護衛戦隊が戦艦「大和」率いる第二艦隊の後方を随分と回り込んで、距離を殿艦「富士」艦尾から七キロメートルとったところで、戦隊司令兼「伊吹」艦長 森下信衛は旗艦「伊吹」のメインマスト信号ヤードに「北北西進路を転じ、艦隊方位二七マル 梯陣形にて取り舵一杯」を掲げさせた。更に重ねて発光信号で連携を命じた。このような近代戦において信号のやりとりを旗旒や発光で行うのはあまり多いわけではないのに、森下は拘って意図的に使うことにしていた。「伊吹」型三隻は単艦では威力を発揮しない。三隻全十二門が連携して初めて攻撃力を確保出来るのだ。艦隊運動は必然的に重要であり、こと戦闘状態では無線に頼ると電路が破壊されたり、電波妨害が行われたときに緊急の対応がしにくくなる。日頃からどのようなかたちであっても信号方法を特定せず一つに頼らないようにするという信念を持って森下は今も常日頃と同じように各艦と連携をとろうとした。レイテ沖で多数の将兵を失って以来、聯合艦隊には人材が大変不足している。故に各艦ベテランの乗組員が少ないこともあり、訓練も不足がちであるから、つとめて慣れさせるようにしたいという希望があったのだ。
艦隊が綺麗に斜め梯陣を組み終わるやいなや、トップ射撃指揮所から敵編隊視認の知らせが入った。即座、艦橋の全員が双眼鏡で洋上を見やると前方に遠く戦艦「大和」他が視認でき距離は六キロメートル弱ほどか、第二艦隊は翳んで見える。大分明るく雲が薄くなり出した南の海上には、今度は靄気がやや立ちこめてきているようだ。敵編隊は小さな双眼鏡の解像力では全然見えない。しかし一瞬、見張員が左舷大型双眼鏡ではハッキリと点状に細かな黒い粉が灰色の空に浮かんでいるのが視認できたようだ。電探では二百機は確実と報告している。と見ている間に、突如第二艦隊が爆発したごとくの強烈な閃光が光った!戦艦「大和」がその巨砲九門を一斉射撃したのだ。七十秒ほどすると雲間に稲光のような光が次々に輝き、やや遅れてぱらぱらと輝く光点が鈍く光りながら滝のような筋を描いている。
「大和発砲しました!」見張員が叫ぶ。
「世界一の大砲とはいえ、あれじゃ当たらんな。」
艦橋に戻ったばかりの渡邉副長がしたり顔で感想を述べた。
「ありゃ、大和へ敵をおびき寄せる罠さ、有賀がやってるんだろう、あいつならそう言う悪戯好きそうだ。」
森下艦長はさも楽しげに体を揺らして笑った。
「しかし、我々が後方退避しているように見えるかなぁ。」
「電探では今のところ敵編隊はひとかたまりに動いています。現在波浪は八メートル以上、風速十ノット 風向南南西。水探に感知無し。」
「背後を突かれちゃたまらないからな、見張員を右舷に倍立たせておけ。」
脇田航海長が海図台から離れて森下と渡邉の元へ近づいた。
「敵編隊頭で距離55キロ、艦長、隊列を砲撃態勢へ持って行くタイミングですね。」
「第三対空砲撃態勢をとれ、各艦に信号、電信で確認せよ あとは航海長 頼む。」
「わかりました。本艦及び艦隊の指揮を預からせて頂きます。」
軽く敬礼すると脇田は見張員に各艦の距離報告させた後、次々に下令した。
「赤フタジュウ!」
「赤フタジュウっ!よーそろー」慶賀野が元気よく伝声に復唱する。
「とーりかじぃ!ヒトジュウ!」
「とーりかじー!ヒトジュウ!よーそろ!」
艦橋背後の旗甲板で次々に上がる信号旗がびりびりと音を立てて上がって行く。速力表が上がりきる。
「艦首回った。」次々に見張員が復唱する。
「もどーせー!」
「もどーせー、舵中央、よーそろー!」
波浪に傾ぎながらもどんどん水平線が回って行き、風圧がまともに艦橋に向かってきたかと想うとひときわ大きな波が艦首にぶつかり恐ろしいほどの大きさで第二砲塔まで飛沫を叩きつけてきた。波は白い泡をぶくぶくといわせて断末魔のあがきのように艦首甲板をしばらく洗ったが、やがてそれも消えていった。
「黒フタジュウ、おもかじにあてー!」
「黒フタジュウ、面舵にあてー!よーそろー」
今度は右舷遙かに稲光のような輝きと雷鳴のような砲声が小さく響いてきた。
「各艦へ信号 一斉回頭左百八十度 列方向まるよんごー!」
信号兵が勢いよく旗甲板へ掛けて行く。やがて、伊吹を殿として梯陣のまま三隻は全く反対方向へ元来た航路を辿りだした。
「両舷最大戦速。」
数分のことだが、脇田はいとも簡単に艦隊航進を逆転させてしまった。脇田の航海術操船技量は操艦の達人森下にも一目置くものがある。
「艦長、戦隊各艦 第二艦隊真北五キロに占位しました。あと二十五分で第十八駆逐隊と反航で会合します。」
「御苦労。砲術長に、右砲戦用意。」
渡邉が艦内電話を取り上げる。
「各砲 右砲戦用意よーそろー!」
「右砲戦よーそろー!」
砲術長の声が漏れて聞こえた。落ち着いた静かな声だ。
すると艦首の第一第二砲塔がするすると動きだし正しく右へ向いて砲身を三〇度近くに係止した。見事な早業だった。
「耐防炎防御。各部閉鎖。」
両翼に見張で立っていた水兵達は慌てて室内へ逃げ込んだ。防空指揮所の見張員も待避所へ逃げ込んでいる。艦橋のハッチは閉じられ、窓枠には一サンチほどの穴が細かく穿ってある鋼鈑が降ろされて更に対弾ガラスが引き揚げられてクリップで留められた。暗くなった艦橋内は、赤色灯で灯される。それでも小孔から漏れる明かりが大分足下を明るくしてくれている。寒かった今までと違い、鋼鉄で閉じこめられた室内は今のところ丁度良い温度のように感じられたが、通風口は既に開かれて換気をはじめている。
「十分後「満月」電信。会合次第第三警戒序列で戦隊に並べと伝えよ。」
そう指示すると森下は椅子から立ち上がり、双眼鏡を覗いた。
「電探室からです! 敵機は三群に分かれ左右及び中央に波状攻撃を企図している模様。向かって右翼群は高度急上昇中九千で東へ進路変更、他の二群は第二艦隊へ高度七千で第二艦隊へ向かっています。」
渡邉が舌打ちした。
「ち、陽動したつもりが奴らも陽動しようっていうのか。」
「こちらの進路を見てでしょうね。でも敵の判断はちょっと遅かったかな」
脇田は振り返りもせずに渡邉の後ろで海図台に体を預けて書き込みしている。
「なべさん、やるよ。信号兵、各艦に電信。本艦砲撃に続けて砲撃開始せよ」
吸いきった煙草をくしゃくしゃと艦長専用箱に押し込んで、森下は新しい煙草に火を付けた。
この金箱は本来煙草盆と呼ばれるべきなのだろうが、艦橋内で煙草を吸うものは(吸える者は)艦長ただ一人だったから、だれも遠慮して敢えてそれを正しい名称で呼ぶことはしなかった。信号兵が信号室へ飛び込んでゆく。
渡邉はキッとうなずいて艦内電話を取り上げて決然と指令した。
「砲術長、砲戦準備でき次第、砲撃開始!」
砲術長は艦橋トップの射撃指揮所兼測的所に入っていた。
四つの砲塔を司るのはこの射撃指揮所であり、電探射撃を主とする場合は電探室からの、眼視で行う場合は測的所及び各砲塔測距儀からのデータを発令所の射撃盤で成果を与えて敵の未来位置を予測計算しその諸元を各砲塔及び射撃指揮所とそれを含む方位盤照準装置に送る。その成果に従って主砲は仰角砲口を調整する。
狭いその射撃指揮所で、いまや遅しと射撃開始を待っていた砲術長川村中佐は、副長の電話を受け取ると最後の確認と既に何度も行っている弾道管制室への電話をかけながら、射手へ話しかけた。。
「見えるか。」
「ばっちりでさぁ。」
ベテランの射手朝永兵曹長はぶきらぼうに答えた。いかにも早く撃たせろと言いたげである。
「弾道管制室。準備良いか?」
『いつでもどうぞ!』
静かな今井大尉の声は非常に遠く感じた。その横には川村が娘のように可愛がっている藤原伊吹准尉がいるはずだ。彼女は今、この艦の魂となって、我々を眺めているらしい。
心の隅でひょいと伊吹を想いだしたとたん、すぅーっと何かが口の中から入ってきて耳の奥に柔らかい響きで語りかけてきた。

###川村砲術長。私も準備万端できております。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。###

訓練でもこの精神遠隔感応で語りかけてくるのは何回も味わっているが、いつも寒気がしてしまうのだ。職務は帝國軍艦「伊吹」砲術長、帝國海軍中佐と厳めしく、逞しい筋骨隆々口髭で強面の中年男であるが、ついつい肩を射すくめてしまう。答えて返事しようとしても彼女にはこちらの思念は読めないらしい。
「今井大尉!伊吹君に宜しく伝えてくれ給え。」
『了解です。』
電話を切って、頭の中を振り払うように首を軽く振った後、おもむろに顔を持ち上げた川村はぐっと歯を食いしばって方位盤に向き直った。
いくつもの角度受信器の赤い針が示す基針に白い追針を合致させる作業がめまぐるしく行われる。

「砲撃準備完了」

「撃てっ!」

 後部四番砲塔ついで三番、二番、艦首一番砲塔へと順次、目もくらむ67サンチ重高角砲の砲火が雄叫びを上げて咆哮していった。

砲煙は長大な「伊吹」の船体を包み込んで一瞬爆風に消えたように見えなくなったが、すぐに強い南風が巨大な砲煙をたちまち吹き飛ばして行き、煙はまるで舐めるように船体を流れて消えていった。それでも煙が概ね消えて無くなるのには数十秒が必要だった。
 遠く2万メートル以上の水平線上に輝く、彼方からの閃光を敵味方ともにどのように見えるのだろう。ブラストの衝撃と砲煙の立ちこめる艦上では乗員は誰一人としてそれを確かめるすべはない。

ただ一人の少女を除いては。