彼方からの閃光 #10

 今井は力なく佇んで、死人のように動かない伊吹をしばらくぼんやり眺めていたが、ふと不気味なほどの静かさで我に帰った。主砲は既に砲撃を終えていたのだ。空虚な静寂は彼の肩の上に重くのしかかり、周囲の人間も含めて、ぽっかりと心に開いた妙に茫洋とした気持ちにした。やがて、今井の傍らにいた櫻井は、呆然と佇む彼を置いて、主操作卓へ移動し、何事か小声で話し合い出すと他の四水兵と共にいそいそと機器類の調整を始めた。「黒い椅子」の背面では、新実軍医が置いていった若い青年衛生兵が物珍しそうに巨大な電気装置類を眺めている。
 ようやく重い足取りで悄然と艦内電話へたどり着いた今井は艦橋へ電話回線を開いた。
「今井です。艦長をお願いします。」
 やや、間をおいて森下艦長が出た。
『御苦労だったな。金山上水から顛末は聞いている。今、副長の意見も貰った。藤原准尉のことはしかたがない。』
「いえ、こうなることは予測されていたことでした。しかし、今のこの段階でなるというのは、あまり考えていなかったのですが。」
『我々常人が触れることの出来ない、彼女の”能力”の中のことだ。学者の言うような単純な話ではないだろう。気に病むことはない。
 ここまで来られたのだ、大きな評価さ。沖縄本島までは二時間。もう、一歩だ。我々はともかくも、「大和」は間違いなく行き着けるだろう』
森下の声は静かだが力がこもっている。
『とりあえず、これから後当面我々だけの仕事になるだけのこと。君はそこで用が済み次第、羅針艦橋へ上がってくるように。かなり忙しくて人が足らない。航海長を助けてくれ。近接戦だ。私は防空指揮所へ上がる。』
「了解しました。直ちにそちらへ行きます。」
 電話を切ると、「黒い椅子」の正面に立ひざで屈み、そこに横たわる伊吹へ、そっと静かに語りかけた。
「伊吹君、私は艦橋に上がらねばなりません。」
 伊吹は小さくうなずいた。が、相変わらず右手はその顔から張り付いたまま離れなかった。
「なにかあったら、金山君と衛生兵に。」
 そういうと衛生兵がちらりとこちらを見て小さくうなずいた。今井もうなずき返した。そして軽く顎を上げて宙を見ながら諳んじるように彼女に語りかけた。
「なあに、心配は要りません。電探室の報告によれば敵機はほとんど殲滅したようです。今、我々は勝っています。しかし、第四波攻撃があり得ますから、油断せず、とりあえず元気が出るようゆっくりここで休んでいて下さい。ではまた。」
 神妙な顔つきを崩さず今井はすくっと立ち上がった。それからくるりと向き直り、背後へ進むとロッカーから防毒マスクと小型酸素ボンベを取り出しててきぱきと背負い、鉄兜を被った。そして一分ほど通信兵たちにいくつもの指示と打合せをおこなって事後を頼むと水兵達が敬礼する中を足早に弾道管制室を出て行った。
 しかし伊吹は何も反応を示さず、「黒い椅子」に深くただ伏せっているばかりだった。
 気を取り直し、今井は狭い通路を抜け艦橋へ向かうすがら中甲板へ上がる最初のラッタルに取りついた。と突如、ボンッボンッと連続するくぐもった破裂するような砲撃音が聞こえてきた。再び高角砲群の迎撃が始まったのだろう。それは、敵機が襲いかかってくることを意味する。波浪でうねりで大きくピッチングとローリングを繰り返されて、まるで誰かが意地悪で揺らしているような急角度のラッタルを息を切らして駆け上がって羅針艦橋にたどり着くと、既に艦長と副長の姿は無く、水兵が多くいるものの、主要指令部員は脇田航海長と三人の士官くらいしか残っていなかった。既に防護板は降ろされて艦橋室内は薄暗いものの各部機器類の内部照明灯がほんのりと暖かみのある明かりを与えていた。しかし中は高角砲群の間段無く続く爆音で細かく窓ガラスを振動させているところに土砂降りの大きな雨粒が窓ガラスをこつこつ叩いて、小さな声では話が聞こえないくらいだったから、今井は叫ぶように自分の到着を叫んだ。
「遅くなり申し訳ありません!航海長。敵機は?!」
「お、丁度良いところに!」
 今井は振り返った脇田と敬礼を交わした。彼は額に脂汗を浮かべて、なにか不味いものでも含んでしまったような渋い顔をしている。
「敵機が四方から押し寄せつつあるんだ。残りは七十機弱くらいのようだ。まずいことに今さっき突風でメインマストの二七式電探が旋回機能を停止した。今井君、来たばかりで悪いが応急指揮にいってくれるか。電探班から何名か修理に出ていると思うが、この状態の中で、彼らとしても少しでも君のようなエキスパートが居る方が心強いだろうし。」
「わかりました。直ぐに往きます。」
「雨が酷い。感電に注意してくれよ。他の電探は起動中だ。戦闘中で電源を落とせない。」
「二七号電探はそれらより上方で距離が遠いから、なんとかなるでしょう。」
 伝令兵が一人雨合羽を持て来てくれて今井は、それを後ろから羽織らされた。ついで脇田は今井が雨に濡れて水が滝のように流れている左舷見張所へ飛び出てそこからラッタルで旗甲板へ降りていくのを見送った。旗甲板には数名のずぶ濡れになった応急兵が部品箱を抱え遙か高くにそびえるメインマストの電探へ目指して駆け上がって行くところだった。
 脇田は艦橋内へ戻り、従羅針儀横の伝声管を掴んで立った。なんとか早く復旧してほしいものだ。先ほどから得ている気象図は数時間後には雨は止んで雲も晴れてくることを暗示していたが、当面それはあまり役に立つ情報ではなかった。電探室からの拡声器ががなりたてた。
『敵機雲上高度1000mあたりで二十機ほどこちらを窺っています。』
 この報告は艦橋トップの防空指揮所にも当然伝わっていた。ぱっと翻って渡邉副長が荒っぽく艦内拡声器のマイクを取り上げて叫んだ。
「射撃の手をゆるめるなっ!今日は夕飯にビフテキを出すように主計長に進言しておくから張り切って働けっ!」
即座、艦内電話で後部艦橋から那須少佐からの返答があった。極めて真面目な口調で。
『副長、酒は一人一升という事で手を打ちましょう。』
 やや過大な要求だなと渡邉はほくそ笑んだ。ウチの艦には高角砲兵員何人いると想っているんだ!
「主計長にツケ、回しておくよ。」
 長一〇サンチ高角砲十八基、各砲塔に配置の兵は十名。那須少佐の給料明細には何と書かれるのか楽しみだ。しかし、その効果はてきめん、高角砲群は砲火をますます激烈に雲の中へ打ち込みだした。 
 強風で上下に降り注ぐ豪雨で今やぐしゃぐしゃに濡れそぼった指揮所の面々は、目を開けていられないくらいの風雨の中全く何も見えない真っ暗な一面の雨雲を仰いでいた。敵機は雷撃と急降下爆撃を同時にフォーメーションを組み、波状に襲いかかってくる。少しでも敵機が片鱗を表せば直ちに発見を叫ぼうと全員の双眼鏡は身構えられ、メインマストが艦尾方向にあるのが目障りにも想えた。
 幸い近距離用電探である三一号電探は相変わらず問題なく使えている。雲上もしくは雲の中に潜む敵は一応は捕らえられ、雲量10という視認には最悪の情況であったものの、一応の電探射撃で高角砲群はその激しい雨の中に猛烈な弾幕を張っていた。しかし低い雲を利用して突如敵の急降下爆撃機が現れると、その弾幕はもう全く役に立たなかった。次々と数人の見張員が同じ事を叫んだ。
「敵機頭上っ!」
 間髪入れず森下が伝声管に怒鳴った。
「面舵一杯っ!青青ーっ!!」
 まず三機現れたと想うと、彼らはまさしく矢のような勢いで「伊吹」目がけて突っ込んできた。「伊吹」型の対空システムは基本的に高角砲各三基毎に一基の高射指揮装置で追尾するものである。日は浅いものの、良く訓練された砲術班の水兵達は極めて視認しにくい天候にも関わらず、直ちに敵機を追尾し、長十サンチ高角砲はそれを打ち落とそうと力の限り連射した。そのかいあって、まずドーントレス一機に対空砲弾の焼夷弾が見事に命中、それはたちまちバラバラと空中分解した。残る二機は、今までに聞いたことの無いほどのエンジンの爆音を轟かせてほぼ垂直に落ちてくると、メインマストの真上で(と見えた)一瞬の間に撤甲弾と思しき禍々しい爆弾を落とし、うなりを上げて次々と切り返して左舷の海面へと抜けていく。追尾の砲撃は、上手く逃げおおせた彼らを容赦せず背後からねらい打ちし、見事に二機は次々と海上へまるで背中を押したようにばらばら打ち落とされていった。
 彼らの意思はそれでも残っている。二機の投げた悪魔の化身は、その内一発が辛くも急速転舵した「伊吹」の左舷前方に巨大な水柱を上げ至近弾となって舷側を灰色の潮水で濡らした。そしてもう一個は不運なことに、左舷前方二番砲塔脇甲板の短艇置場にぶち当たり、上甲板を突き破ると中甲板の兵員室で炸裂し、轟音と火柱を上げた。今まで無傷であった「伊吹」の最初の被弾である。その爆風は衝撃波とともに甲板の雨を干して水蒸気を発した。その弾片スプリンターは周囲を聴くに堪えない金属音で叩きまくった。やがて上空へ吹き飛んだそれが、防空指揮所の中にも雹か霰のようにバラバラと落ちてヘルメットを軽く叩いた。
「被害報告せよっ。応急員至急、左舷被弾箇所へ!」
 伏せてしゃがんだ渡邉がスプリンターが混じる雨の中、直ぐに立ち上がり防空指揮所の下にある艦橋へ向けて伝声管に叫んだ。
『左舷中甲板第三,第四,第五兵員室火災発生中。他の被害はない模様です。』
「区画ハッチ閉鎖しろ。消火急げっ!」
 渡邉はそこまで指示すると森下の方を向き直っていった。
「この土砂降りじゃ、とにかくも不利ですね。」
 指揮所の右舷中央で腕を組んで仁王立ちの森下は、ついと渡邉の方を向くと、鉄兜からすだれのような水しぶきを流してニヤリと笑みを浮かべた。
「まぁ、そう言うなよ、ナベさん。この風雨、敵も攻撃しにくいのは同じさ。」
 そういうと右手の人差し指と中指をV字にして口へ持って行く仕草をした。
「ともかく俺としては煙草を飲めないのが一番調子悪いな。」
「初めての被弾です、ちょっと下へ降りて応急指揮を執ります。」
「頼む。」
 渡邉は素早い身のこなしで艦橋へとラッタルを降りていった。
「右舷前方、雷撃機っ!数五っ!」
 見張員が又叫ぶ。雷撃機は正確には六機だった。距離は二千メートルほどか、雨脚が海面を叩く中、やや離れたところで黒々とした棒のようなものを海面すれすれで次々投げ入れている。彼らは所定の行動をとると直ぐに左右に展開して逃げの一手だった。もちろん高角砲がそれを追う。見事に三機ほどが空中でバラバラと砕け散っていった。
 しかし右舷前方から雷跡六条がなにか間が抜けたようなスピードで伸びてくる。浅い深度調程の雷撃は比較的速力が遅い。なにか気が抜けたような、しかし恐ろしい仕掛けられた罠が「伊吹」の行く手を阻んで放射状に広がってくる。その「気が抜けた」様子、否、それは見かけだ。六万トンの自重を誇る「伊吹」には十分な脅威である。彼女の重厚長大な艦体は簡単にそれを回避出来るような代物ではない。藤原准尉のような奇蹟の非物理的な力がない限り、「伊吹」には万物を制する自然の法則が働く。それをコントロールすることが生き残るすべである。
それは防空指揮所で操艦の指揮を執る森下艦長の一挙一動であり、まさにその神業の操艦が「伊吹」乗組員のすがれる力であった。
「両舷停止っ!舵中央!」
惰性が強く働いている「伊吹」はそれでも吸い込まれるように雷跡へ近づいて行く。ざあざあと防空指揮所の床を叩きまくる雨の音が妙に大きく大きく響く。
「おもかーじ一杯!左舷一杯!」
号令して三〇秒ほどしばらくすると「伊吹」はずりずりと左へ平行移動するように横滑りし、見事放射状の魚雷進行方向のど真ん中を占位した。雷跡は「伊吹」の船体との海水の粘性による引力を感じて、若干彼女の腹へ寄って来た。が、それはずるずると鈍い鉛色の海面に白い泡を見せて魚雷は両舷をそれは綺麗に駆け抜けていった。
「お見事です、艦長!全魚雷回避!」
「やったーっ!」
どこからか見張員たちが感嘆の声を上げた。
 しかし結局のところ急激な回避行動は、射撃精度を下げた。「伊吹」の高角砲群はその全ての雷撃機を打ち洩らしたらしく、数機の敵が左旋回をしながら上空の雲の中へ消えて行く。その向こうでは僚艦「富士」がまさに活火山のような激しい砲撃を行っており、その火炎が暗い空の雲に赤い光を照らし上げている。更に周囲では護衛の駆逐艦達の対空砲火が矢継ぎ早に輝いていた。小さな彼女たちのその周囲は小山のような水柱が沸き立って、各艦はそれを縫うように航走しているのだった。
「左舷第十二区画火災止みません。第二砲塔弾庫及び下部火薬庫温度上昇三十八度。」
「注水準備しろ、いや、まだするな。鎮火見込みを逐一報告せよ。」
そこへ立原信号長が暗い顔で報告した。
駆逐艦「桃」からです。”我、雷撃と爆撃同時に受ク。総員上甲板ヲ指示”」
「くそう、一隻たりとも失わずにと祈願していたが。」
だれかが本当に悔しそうに歯噛みして言った。森下は少し顎を上げて目を細めて空を仰いだ。
「「桃」に信号。”しばし待て”。ついで各艦に伝達、”指示あるまで各艦、救助行動は要無し”と伝えろ。」
 我に帰ったように、怒鳴り声で森下は厳命した。その声に対空砲火の轟音も一瞬遠く聞こえるようだった。
 再び、立原信号長が森下の横に立って報告する。
「艦長!第二艦隊の大和から緊急電です。”我十数機以上ノ編隊ニ攻撃サレツツアリ。貴艦隊ハ如何ニ”」
 森下は唸った。今、第二艦隊を襲っているのは間違いなく撃ち洩らしたB群の残党である。当初、我々を攻撃目標としていたように見えたが、第二艦隊へ目標を変えたのだろうか。彼らは今、森下達が相手をしているA群と違い、遠く北へ迂回展開してUターンしてきた。彼らの機体の航続距離からして母艦へ帰還することはギリギリに考えている節がある。その決死の攻撃は、そうとうの覚悟であろうか。
「伝令!大和へ返信。”我五十機以上の攻撃を受けつあり。被弾するも戦闘航海に支障無し。至急「鞍馬」を急行させる。”次に「鞍馬」へ伝達。”直ちに回頭し第二艦隊護衛にまわれ、緊急”以上」
 間髪入れず電探室からの拡声器がガリガリといいながら叫んだ。
『電探に感!!右舷艦首方位20距離1500 雷撃機五!』
「取舵一杯!舵中央。両舷第四戦速っ」
やや直進を続けてしばらくするとゆっくりと「伊吹」は左に横滑りをはじめて、やがて艦首が回り始める。
「両舷一杯っ、右あて舵。」
そういいつつ上空を睨み、数秒後予見どおり敵機が現れた。
「面舵30。左舷機一杯」
そうして、ほとんど間髪入れず「伊吹」の巨体は、右へ左へあるいはぐるりと回頭し、普段から言う彼の信条「回避行動で敵弾は全て避けられる」という神業をまざまざと見せてつけてくれた。
「ああ、「鞍馬」が往く。」
 傍らの見張員が大きな声で呟いた。
 「伊吹」とほぼ同じ姿をした美しい長大な軍艦が、右舷八百メートルくらいを、激しい波浪の中、白鳥が羽根を開くように艦首波を切り開き、重高角砲の全砲門を前方へ高く差し向けながら、高速で反航してどんどん小さくなって往くのが見えた。ややすると東に転舵し小さく真横のシルエットとなった「鞍馬」は爆発したような閃光を放ってそれから数秒後、雷鳴にも似た砲鳴が海上に鳴り響いてきた。第二艦隊への防空射撃である。ふと気づけば、雲がやや切れてきており、水平線の一部がきらきらと細く輝いて見える。
「来た来たっ!直上、グラマンっ!二機っ!」
「鞍馬」に見とれる間もなく、見張員の叫び声があがる。
「とりかじっ一杯! 赤々っ!全員伏せろっ!!」
 森下はかろうじて叫んだ。その声はややしわがれて来ている。
 敵の攻撃は恐ろしく執拗であった。もう二十機以上の急降下爆撃と同じく二十機以上の雷撃をかわしたものの、そのしつこさには敵ながら敬意すら生まれる。
 十四時三十八分、それまでの強風と雨が一瞬弱まった。そして、まるでその時を狙っていたかのように一機のドーントレスは「伊吹」の巧妙な回避と熾烈な対空砲火をかいくぐり、見事な操縦桿裁きで大型の徹鋼弾を「伊吹」に投げ入れてきた。
 それは甲高い音を上げてすぅーっとメインマスト後方へ落ちていったと思うと、突如大きな衝撃が防空指揮所の全員を突き飛ばした。爆風と硝煙の煙が消えると、彼らは辺り一面うめき声を上げながら倒れ崩れていた。そこへ、そろって突撃してきた別のドーントレスが、まっすぐ頭上から激しい機銃掃射で艦橋上面をメチャクチャに穴だらけにした。が、伊吹の高角砲が一発、それの左主翼を吹き飛ばした。被弾しコントロールを失ったまま、それは爆弾ごと艦橋左舷旗甲板の後部下に突っ込んで二つの高射装置と探照灯と旗甲板左半分を吹き飛ばした。全く同じ情況でまたも別の一機が後部第三主砲砲塔天蓋に激突、爆弾は不発だったもののシャッター式砲身基部カバーをぐちゃぐちゃに崩し、そこにはドーントレスの機体後部が突き刺さってしまったように白い星のマークもはっきりと残骸が突き立てられた。爆発はしなかったものの、この残骸は第三砲塔砲身の上下仰角を不可能にした。
「皆、大丈夫か?おい!各部、至急被害を知らせ。」
 従羅針儀の根本に足を投げ出して座り込んだまま、そう指示すると森下は鉄兜を脱いで腰の横に投げ出し、そのくしゃくしゃになった頭を掻いた。防空指揮所は今や地獄絵と化していた。うめき声はあちこちで、あるいは全くぴくりとも言わず動かない者も居る。
「岸田一等水兵と中村兵曹がだめです!」
見張員のだれかが叫んだ。

「艦長、後部三番主砲に敵機が突っ込んで砲身起伏が出来なくなりました。復旧は今のところなんとも言えません。」
ややしばらくするとヨロヨロと渡邊が戻ってきて報告した。それも森下は起きあがらずにそのまま聞いた。腰を打って激痛が走った。肋骨の下部を折っているようだ。どうにも起き上がれない。
「艦長、大丈夫ですか。」
「左の肋骨をやられたようだ。おまけに、左足の太ももに一発喰らった。痺れて持ち上がらん。悪いが、このまま聞かせて貰うよ。」
心配そうに渡邉は軽く体を屈ませて艦長の様子を窺った。投げ出された左足のズボンが破れていないもののスプリンターが突き刺さったのだろうか、色濃い血糊が滲んでいる。
「衛生兵を呼んでおきました。すぐ、来ます。」
「報告を」
「左舷第12区画火災消火、応急修理中。負傷者3死者6。第二砲塔弾薬庫温度通常ですので注水はしていません。後部第三砲塔砲身基部防護シャッター損壊、砲眼孔、砲耳軸に破片が挟まって撤去中。砲身動作不可。人員被害無し。左舷第四,第六高射装置、第二探照灯と旗甲板全壊。メインマスト基部一部と緊急蓄電池損壊。負傷者四死者二十五名 メインマストトップの電探は問題無し。方位盤と測的所は破孔が無数に開いていますが、雨漏りが酷いくらいで機能は損なっていないようです。あと後部艦橋が銃撃を受けて5名が負傷。那須高射長が右腕を弾片で軽傷。全艦でその他負傷者十八名」
「ふむ、高射長やられたのか。」
「ええ、でも全然元気そうでした。」
渡邉は微笑んだ。よく見ると彼の額にも軽く切り傷を貰ったらしく、ぱっくりとどこかの侍のような三日月形に割れたそれから、鮮血を滲ませて眉毛の所まで流れ出させていた。
「高射長曰く、日頃の行いが良いそうです。」
 ようやく敵の攻撃はぱたりと止んだ。幸い奇跡的に無事の電探には雨雲上空で旋回している集結している敵編隊が確認できたが、数は既に十数機ほどのようで再攻撃をしてくるそぶりは見せていなかった。A群は当初百八十機、今や彼らはその数を一割ほどに減らしてしまった。
振り返ると先ほどまでやかましく砲弾を撃ち上げていた高角砲の砲声も艦橋前面の機銃群も静かになっていた。脇腹の痛みを左手で押さえつけて森下はよろよろ立ち上がり、それを渡邉が小脇に抱えて助けた。そして、そのまま伝声管に歩いてゆき、蓋を開けると羅針艦橋に呼びかけた。
「艦隊各艦に損害状況を報告するように通達せよ。」
信号は各艦に伝えられ、直ちに折り返し信号が次々に入った。信号長が顔面右半分、血だらけのまま、平然と歩いてきた。よく見ると右手が。無い。
駆逐艦「桃」沈没、「桑」「梨」小破、「富士」後部航空機格納庫に被弾水偵全部損傷使用不能、錨鎖甲板に被弾、ウィンチ、アンカー喪失、二七号電探旋回現在修理中、被雷二なれど双方不発。浸水550t排水可 航海支障なし。他はほぼ無傷です。撃墜記録は乱戦のせいか、誰も報告有りませんな。」
「そうか。それより信号長、君は直ぐに下へ降りたまえ。」
森下は従兵が差し出してきたタオルケットを受取り顔を拭いた。しとどに濡れぼそった服は重く、冷たい雨に打たれていたので寒気が急に襲ってくる。
「ありがとうございます。そうさせて頂きます。」
 立原信号長はそう言うと、ふいにふらりと立ったまま仰向けにひっくり返ってしまった。
「信号長っ!」「立原さんっ!」
 その場で動ける兵が上村の側へ駆け寄った。
「信号長を医務室へ送ってやってくれ!」
 そこへ丁度、新実軍医長と衛生兵一人が訪れた。すぐに衛生兵と水兵三人で抱えて上村はハッチから降りていった。
「艦長、お体を拝見します。」
 新実軍医が森下へ駆け寄った。
「軍医長。肋骨をやられたよ」
「鎮痛剤を打ちます。足も拝見。ああ、鉄片が刺さっていますね、今抜きます。」
 新実に手当てされて、森下が苦痛で顔をゆがめた。
「肋骨のほうは心配ないです。足の怪我は応急で止血しましたが、こまかい断片が少し残っています。落ち着いたら艦長控室で軽く手術ですな、艦長。」
治療は直ぐ終わった。
「ああ、落ち着けたらお願いするよ。ありがとう。軍医。」
「艦長、煙草をお持ちしましたよ。」
 ひょいと煙草を差し出してきたのはこの場にいるはずのない鉄兜を被った胡桃沢主計大尉だった。
「おお、ありがたい。さっき切らしてしまった。」
 珍しくまるで子供が菓子に手を伸ばすように素早く箱受け取ると、森下は早速煙草をくわえて火を探した。胡桃沢は、さっと真鍮色も鮮やかなライターを差し出した。
「ほう、佳いものをもっているじゃないか。」
 新実が覗き込んで冷やかした。
「上海で土産に買ったのですが、あいにく自分は煙草を飲まないので、机にしまいっぱなしでした。」
 小さく笑って胡桃沢は、美味そうに一服をつける森下を満足そうに眺めると、首に掛けた双眼鏡で周囲を眺めた。雨はいつのまにか止んでいた。
そこへ渡邉が報告した。
「艦長、電探報告です。敵編隊が一群になり飛行方向を変えたようです。数は二十五。」
「副長、ちょっと肩を貸してくれ。」
聞き終えると渡邉に抱えられつつ、伝声管で足下の羅針艦橋に呼びかけた。
「航海長、第二艦隊と我々の位置を知ら…。。」
「艦長、私は此処にいます。」
 ふいに声のする方を振り返ると脇田がいつのまにか右脇に立っていた。
「潮気を浴びに上がってきました。」
 脇田は明るく笑った。
「現在我々位置は東経一三五度 北緯三一度二五分です。対して第二艦隊は東経百三十五度二十分 北緯三十二度〇八分で西北西に三十四キロの位置を南東へ進んでいます。今反転、第四戦速で急行すれば五分後には主砲射程距離に入れます。」
「奴らを追う。全艦に信号。回頭百八十度 艦隊隊列方向一八〇 第二対空態勢。主砲射撃準備右砲戦。それと「桃」の乗組員救助に「杉」を派遣せよ。駆逐隊は水探にて潜水艦に厳に警戒せよ。以上。」
 森下は即座にそう指令を出すと、よろりとブルワークへわしづかみに体を寄せて再び眼光鋭く水平線を睨み、単独で第二艦隊救援に向かった「鞍馬」が遙か彼方で火閃を開き続けるのを凝視した。
「あれを助けねば成るまい。羅針艦橋へ降りよう。」
 見張員を残し、森下は羅針艦橋へ幕僚と降りた。
 主力の大型対空軽巡洋艦二隻を中心とした合計九隻の第八護衛戦隊は大回頭をすると隊列を直し、猛烈な水しぶきを上げて高速で再び北を目指し、脇田の予測通り、数分後、「伊吹」「富士」は重高角砲の射程に入った。第二艦隊は既に敵機と交戦中で、大きな水柱は電探にも良く反応している。僚艦「鞍馬」はその西側から反航しつつ、おもむろに主砲で砲撃している。
「防護板を上げろ。左砲戦用意。「鞍馬」へ信号。”航路そのまま、北へ抜けたら左回頭し第二艦隊に順行せよ。”以上」
 ばたばたと兵員が艦橋前面の窓枠からスライド式の防護板を持ち上げた。
 一,二,四の各砲塔3基が一斉に左舷前方を指した。「伊吹」は三番砲塔が未だに復旧出来ていなかった。
「艦長、二七号電探修理完了。」
 はぁはぁと息使いも荒く今井大尉が、ハッチから昇ってきて報告をした。
「御苦労。信号長がやられた。大尉、臨時で代わりを頼む。」
「はい。」
 間髪入れずに右舷見張所で後方を見張っていた福井少尉が叫んだ。
「雷撃機一〇機 右舷後方接近っ!距離3500」
「とりかじ!」一分を待たず、艦が左に艦尾を振り横滑りを始めると再び「おもかじいっぱい!」を掛ける。舵効きの良い「伊吹」はくせが無い操艦しやすいと森下は、よくべた褒めしている。
 しかし回避行動をとり、転舵に告ぐ転舵をすると「伊吹」は速力が極端に落ちてしまう。しかし森下はそれさえも計算の上、敵を欺くのだった。
「両舷前進一杯っ!緊急。」
 こう機関を矢継ぎ早にあれこれと動作させて虐めていたら檜山機関長がぶすぶすと文句を言っているだろう。その「ぶすぶす音」が聞こえるようだと渡邉は思った。艦内でもっとも高齢五十歳の檜山特務中佐は渡邉の頭が上がらない男の一人だった。善行章が文字通り「山ほど」付いた、頭に超がつくほどに頑固であり優秀でありベテランの機関長である。何のかんのと文句は言うが、要求されたことには必ず全力で対応する人間でもあった。
「頭上艦首前方、急降下爆撃機っ!二、いや、七機っ!!連なってきます。」
「畜生、やつらコンビネーションが上手いなっ、見惚れるぜ!」
渡邉が妙に感心したように、しかし吐き捨てるように叫んだ。