〜彼方からの閃光〜#16

16時35分 うねり高しとも南シナ海の洋上は明るく穏やかになりつつあって、つい一時間前のあの荒々しい悪天候は夢のように思えるほどだった。されど、敵味方人間同士の戦いは、相変わらず終わらないままだ。次々と襲いかかってくる急降下爆撃機のエンジンと翼が上げる金属的な叫びとそれが投げ放つ爆弾の飛来音、海上に叩きつけられて炸裂すればその爆発音、そして数十メートルはあろうかという巨大な水柱が崩れ落ちる轟音が鳴り響く。それに呼応する何機もの雷撃機はうねる波頭をものともせずに波間から超低空で魚雷を放とうとする。「伊吹」の見張所から、防空指揮所からその姿を追う見張員たちは、その気力を尽くして、敵の位置を、雷跡を追う。彼等の目、目という目は例外なく赤く充血し体力の限界を表していた。襲いかかる敵機、彼等はまるで血も涙も無い冷たい戦闘機械であり、疲れを知らないようだ。そして相変わらず南下する第八護衛戦隊をいつ果てるともない戦いの煉獄から逃そうとはさせなかった。
 最前、突然「代行を頼む。」と言い残して中甲板へ降りていった森下に成り代わり、操艦を預かった渡邉の元には、なお全艦の被害報告が殺到していた。伝声管を抱えて吼え、艦内電話を取り上げては怒鳴り、叱咤激励で各員を働かせて、自らは上空からあるいは水平線から襲ってくる敵機の動向を見て攻撃目的を読んで、その恐ろしい刃から身を守るための指示を即座に行う。しかし、全ての乗組員にとって幸いなことに、本艦の副長ほど一艦の艦長たり得る優秀な指揮官はいなかったのだ。その上に、額に汗して喉を枯らしながら、渡邉は、自分が軍艦乗りであることの喜びを今日ほど感じることがなかった。
 防空指揮所から遮風装置越しに前部甲板を見下ろせば、爆撃機の投弾による水柱が何本も立ち上がる中、やや前トリムになり錨鎖甲板に青波を掬い上げながらも大型対空軽巡洋艦「伊吹」は、出しうる最大速力を出して、回避運動を繰り返しながらなんとか航走している。
 とはいえ、そのしなやかな船体は今はそこかしこに破孔が目立ち、リノリウムはどこもかしこも留め金が外れてずだずだになっており、甲板を歩行するのが困難になりつつある。渡邉は戦闘詳報に本艦のような大型艦で広範囲にリノリウムを張ることの否定的意見を書いた方が良いなとちらりと想った。その艦首先端は左舷主錨が脱落してそのホースパイプから空しく吹き上がった波が今や切れた鎖がだらりとしているそれを洗っている。
 第一砲塔前の前部左舷高角砲は直撃で一瞬のうちに綺麗に剥ぎ取られた。そこには破壊されて波に持って行かれた砲塔覆い以外の本体残骸が黒こげたまま転がっている。吹き飛んでしまったであろう砲員たちを幸か不幸か既に自然の波が水葬に伏してくれたことを渡邉は海に感謝している。その脇で双眼鏡から目をこらして雷撃機の姿を追う福井少尉は、もし許されるなら自分もまた間髪無く死に至って欲しいなと自嘲した。
 防空指揮所直上、艦橋トップの主砲射撃方位盤に爆撃で落下し損壊した二七号電探は多大な労力を払ってどうにか撤去されたものの、それが足蹴にした方位盤および測的所は上下方向にひしゃげて変形して内部はめちゃくちゃに潰されて、もはやブリキ缶のゴミ入れのようだった。もちろん本来の機能が使える状態ではなかった。そこから救い出された砲術長や射手を含む八名のは新実軍医の元へと運ばれたが、誰一人として息を吹き返すこともなかった。渡邉は川村が常日頃可愛がっていた藤原准尉へその死に顔を見せたくないだろうなと配慮し兵員が担いで卸す時に川村自らの持っていた防毒マスクを被せて新実に渡すまではそれははずさないように厳命したのだった。もちろん新実はその意を汲み取って、彼の死体を伊吹にそれと知らせることなく処置をしたことは言うまでもない。
 風を切る防空指揮所のその背後にそびえていた「伊吹」型の外観上の特徴であるラティス構造を持った四脚檣大型メインマストは、中間プラットホームから上部を左舷に大きく傾かせ、メインブームをまさに「く」の字にねじ曲がらせている。かろうじて生き残ったメインロワーヤード以外の左右に突きだしている全てのヤードというヤードには、おかしな角度に傾き、ちぎれたままの索類は空しく風に吹かれている。ひょいとそれを見た福井は呉の水交社で見た題名こそ思い出せないが、あの退屈な演芸会で見た、「戦さで矢尽き刃折れた落武者の髷を切られた乱れ髪」のようだと想ったが、そんな一抹の想像時間は、大音響を立てて爆発した至近弾に掻き消されてしまった。
 メインマストの直下から、大型誘導煙突下部への上構は、ようやく火災こそ沈静化したが、破壊された探照灯、その台座やキャットウォーク、高射装置などがさながらくず鉄置き場のように折り重なって黒山になっている。それと対照的に両舷側に並ぶ高角砲群は、ほぼ無傷。これを那須高射長に言わせれば「攻撃は最大の防御なり」ということの傍証と言うことになる。
 もっとも、本来高射装置一箇所で三基管制されるべきの高角砲なのだが、今は生き残った高射装置が二群から三群を指揮している状態で、弾幕の厚さはともかく、敵機が複数で高速で旋回されると追従が間に合わないことがしばしばであった。それでもシェルター甲板にぞろりと居並ぶ高角砲群は、たとえ電探室が破壊されても、たとえ砲火管制が若干本調子ではなくても、どうにか弾幕を張っているのだった。故に、今や晴天であるが敵機が急降下爆撃をしかけるにしても投弾するには、相当高空からでなければ不可能であった。長10サンチ高角砲の威力は一万5千メートル内外を守備するから、さすがに敵機もそう易々と攻撃を仕掛けるわけにはいかなかった。それでも戦闘開始から長時間、完全な機力に寄らない半自動装填による10サンチ高角砲の砲員たちの努力と体力は驚くべきものだった。精神力なのか、あるいは日頃の訓練の賜なのか。しかし、これがいつまでも続くはずもなく、現にいくつかの砲塔は射撃時間がだんだん延びてきてしまっているのを渡邉は意識せざる得なかった。
 後部指揮所は、一つの徹甲弾によって、その根本が大きくえぐられて後方に傾いた。その被弾は那須高射長がミイラ男に変ずる原因だった。そこで高角砲砲火指揮を執っていた彼は直撃の際、吹き上がった爆風で体を吹き飛ばされたのだ。一瞬何が起こったのか判らなかったが、直ぐにそれと知り、立ち上がった足元を見て唖然とした。床にはきれいな真円に切り取られて、そのまま外の光が黒焦げの支塔を照らしていたのだ。あと数センチ後ろに立っていたら。
 目の中まで額から流れ落ちてくる血が沁みるのを目をしばたいて我慢しつつ、那須は自らの幸運をそのときほど感謝したことは無かった。
 そんな被害にもかかわらず、ここの上部主砲指揮装置は奇跡的にまだ生きていて主砲の管制が可能であったが、いかんせん伝声管も艦内電話も高熱に焼きただれた支塔の中で燃え尽きてしまったから、以降、各部への連絡伝達手段が断絶しているために、放置のやむなきになっている。
 しかし実のところ、対空戦闘に特化した「伊吹」型巡洋艦は、ダメージを受けてその砲火管制が破壊されても問題が無いように、各砲塔がそれぞれ測的が可能で独立した砲火管制が出来る上に、どの砲塔からであっても一箇所の砲塔から他のそれぞれを発令所を介して連携管制できるよう配慮されていた。故に大もとの艦橋トップ方位盤が破壊された今は、二番砲塔にて他砲塔の管制指揮を応急的に執っていた。4基の中でも第三砲塔は緒戦で突っ込まれたドーントレスの姿こそ撤去されたが、砲身基部防水装置はそっくり剥がされてしまい、継ぎ接ぎの帆布がその代わりに不細工に覆い被さっていた。そのシャッターを装置もろとも切断撤去してしまったので、砲塔内部が吹きさらしになってしまったのを砲撃可能なように覆いを急造した苦肉の策であった。しかし、今四門の一斉射撃が可能になったことは、「伊吹」にとって非常に幸福なことだった。
 更に後部に目を移せば、艦尾の航空機施設はまるで元から無かったように、カタパルトもクレーンも綺麗に吹き飛んでいた消えていた。複数魚雷による至近爆発で左舷の舵をやられた時にいっしょに水煙の中に消えたのだった。救いになったのは今は必死の操舵装置の修理によって左舷舵が復旧し、正常通り二枚で操舵可能になったことだ。更に付け加えるなら鰭式スタビライザーも奇跡的に健在であった。今なお、高角砲がほぼ正確に射撃を行えるのは、安定性がものを言っている。
 しかし、そんな目に見える被害などよりも、その内部被害は、非常に深刻のままであった。
 第一砲塔左舷は最初の被弾と時間差を置いてヒットした魚雷の破孔で浸水が激しく、片舷注水が一時は二千tを超えた。今は必死の排水と各部隔壁閉鎖が功を奏し、千t以下に下がってはいる。その際、火災で弾薬庫が一時庫内温度が上がって注水が検討されたが、運用科員の必死の消火活動によって何とか持ちこたえ、注水を免れた。もっとも焼けこげた上に水びだしに濡れた三〇〇名分もの兵員室区画は誰もそこで休むことを喜ばないだろうが。
 左舷は、一本の魚雷がヒットして舷側の燃料庫および外側の缶室と共に水密区画を閉鎖注水されてしまっているため、高速を誇る「伊吹」も、いまや残りの三軸で運転するしかなくなっている。速力の低下は、そのまま被弾率を上げてしまう。もちろん長大な「伊吹」には致命的な問題となって、偏った軸運転はそのまま操艦にも大きな影響を与え、舵が復旧したにもかかわらず、ややもすると「伊吹」は左旋回を意識しないと直進も困難な状況であった。
「左舷機スロー!右舷機一杯急げ1/2!」
 かんかんという鐘の音を聞き、檜山機関長は巨大なタービンを前に文字通り湯気が出るような四十度を超える灼熱の中で、数十秒ごとに拡声器で叫ぶ艦橋からの、あいかわらずの急で無理な操艦指示に悪態を付きながら速力通信機とその針の動きを見守っていた。本来居るべき機械科指揮室から人手が足らないために第一機械室に移ったのだった。そこへ顔を高潮した趣で長笠特務少尉が駆け寄って、第三缶室で、注水して高さほぼ半分を水で満たした第四缶室と隔てる縦隔壁の一部で目に余るほどの亀裂漏水が突発的に生じていることを告げた。檜山はなにやら呪いながら、その場を他の機関員達に頼み、自らその漏水箇所へと出向いて思わず「なんてこった!」と叫び驚いた。
 被弾報告がなかった徹甲弾の爆発でもあったのだろうか?それとも悪意の新型魚雷でも炸裂したのか?あるいは造船所で溶接に不備をしてしまったのか。第三、第四缶室をそれぞれ隔てる縦隔壁の一部、高さ六メートル、幅十五メートルくらいに渡りフレームに沿って無数の亀裂が開いており、あちこちから巨大な水鉄砲になって細い滝のように流水が出ているのだ。やっかいなことにその壁という壁には無数の各種パイプ、電纜が張り巡っており、破孔はそれらの背後にもまた無数に開いているのだ。手を入れるのもやっとのその隙間は、それらのパイプをいったん宙に浮かして上下あるいは左右に誰かが若干引っ張るかあるいは取り外さねば、破孔を塞ぐ手だてがなかった。
 檜山が見に来た時には、既に布や木片を詰めて破孔を塞ぐ作業を全身ずぶ濡れになって機関兵や工作兵の応急員がハンマーを振り上げ打つ音が響いていたが、今や誰しもなかなか進まない破孔塞ぎの中、ハンマーをただ無意識のうちに振り上げているように見えた。そして血豆だらけの右手から持ち替えた左手さえも握力を失って、時間を追うごとに応急作業は困難になりつつあるのは明白だった。
 そんな中、黙々と応急作業を工作兵を指揮して排水バルブの応急修理と補機発電機の電力維持に努めていた長笠特務少尉が、ぴちゃぴちゃと足下のたまり水に足を取られながら、補機発電機の不調をなんとかしようと必死になっていた。
 先ほどまで調子よく動いていたにも拘らず、突然停止した大型発電用ディーゼル機関は、いまやぴくりともする様子が無い。
 一緒にそれに取り付いていた射澤一等兵と根牟上等兵が、もぐりこんだ機関の下から顔を出した。二人ともひどくオイルで汚れて密林から出てきた土着民のようだった。射澤が言った。
「畜生!だめだ、燃焼室に水が入っている。曹長、シリンダが焼き付けてしまったようです。」
「そうかぁ。ここでは唯一生き残った発電用補機だったんだが、参ったな。」
長笠は思案顔で左手であごを押さえた。応急で動かすために小型発電機も多数あるのだが、もはやそれでもまかないきれなくなってきて、大排水装置をこの発電機で動かしていたのだ。第三缶室で5つある補機の内、予備発電機は五つあったが、四機が既に故障しており修理中、今はこの機械だけが頼りであった。
「機関長、第二機械室の予備電源を引っ張ってきます。」
「おぅ、急げ!感電に気をつけろ。足下は水たまりだぞ。」
 その道のりは50メートルほどあり、重い電纜を途中中継しながら持ってくる上、途中水密隔壁のマンホールと装甲板にあけられたゲートハッチをくぐらねばならず、その作業は相当な時間がかかりそうだったが、長笠がざぶざぶと水を跳ね上げながら射澤と根牟の二人を引き連れてゲートを潜るのを見送って、檜山はボイラーの操作盤でその状態を見たが、幸い異常は無いようだ。しかしこのまま漏水が酷くなり水位が上がればただではすまなくなる。檜山は艦内電話を取り、艦橋へと中継してつなげた。
「艦橋!檜山です。」
『どうした?機関長』
「恐らく十分ほど前からだと想います、第三缶室で第四缶室との隔壁に原因不明の破孔が無数に開いて無視できぬほどに漏水が酷くなっています。ここが浸水する可能性が出ました。」
『水密区画のはずだろう、どういうことだ。』
「わかりません。不発魚雷でも第四缶室で改めて爆発したとか。」
『人が居るな。今、運用長へ手配させる。』
「お願いします。人海戦術以外の修理方法がありません。あと大型発電機が連続して故障し、この区画の大排水装置へ電源が不足。復旧作業中です。」
『了解。頑張ってくれ。』
 額の汗を首から提げた木綿の手ぬぐいで拭きながら受話器を置いて、ふと足下のビルジを見ると半長靴の上端部まで水が上がっているのに気が付いた。それから何か疲労感を感じつつ、振り返ると、そこでは相変わらず復旧作業が続いているが、気のせいか先ほどよりも皆の元気が無いような気がして、ふと自分もめまいがするのに気が付いた。酸欠だ。よろよろと長笠達三人が電纜ケーブルを担ぎながらひっぱってくるのを見て檜山は叫んだ。
「まずいぞ、長笠少尉、炭酸ガスだ。通風装置をブロワーをもっと働かせよ!」
「もう最大です、機関長。」
「くそ、どういうわけだ。空気が。」
 射澤が叫んだ。
「あー、機関長、外部通風筒をつぶされたに違いありません。」
「馬鹿を言え、何箇所もある通風筒が全部だめになるわけが無い。」
 しかし、射澤の意見に如何にも同意とうなずきながら根牟も意見具申した。
「わかりません。可能性を思えばです。現実問題、とりあえず戦闘時閉鎖指定ですが、甲板マンホールと隔壁ハッチゲートを全部開くのが最善かと思います。」
「機関長、通風筒を点検する余裕が今はありません。彼らの意見を入れて、艦内規定違反ですが今はゲートを空けておきましょう!」
 長笠も同意した。
「わかった、わかった。お前ら若い奴には負けたよ。俺が責任を持つ、直ぐに開放して来い!」
 三人は直ちに各部のマンホールとハッチゲートを開きにかかった。重いそれぞれをひとつひとつ。








 森下が今井を引き連れて中甲板へと慌てて出て行った後から大分経った頃、羅針艦橋はヘルキャットとおぼしき凄まじい機銃掃射を受けた。脇田は、その際に被弾してボロボロとページが散らばった航海日誌を今になって漸く集めることができた。
 彼は、それを無造作に束ねているうちに、ふと日誌の一枚に「魚津沖西北八マイル本艦出力弐拾壱万馬力ニテ 最大速力参拾八ノット発揮ス」と書いてあるのを見て、走馬燈のようにその時の「伊吹」の様子を想い出した。疾走する「鞍馬」「富士」そして我が「伊吹」の眼前に広がる猛吹雪と艦首に吹き上がる荒々しい巨大な波浪、氷点下の冷たい冷気とつららが垂れ下がった艦橋の窓枠、図面台の下で足下を暖める最新式の電気ヒーターのありがたさ。
 そう、未整備であったその主兵装たる六十七サンチ重高角砲の「砲身」を搭載し艤装を完成するために、南樺太・豊原海軍基地を出立した時だ。艦体の空間で空いているスペースというスペースに詰めるだけの重油を満載して半ばタンカーと化した「伊吹」「鞍馬」「富士」の各艦は、連合国に同調し既に宣戦布告してきていた連邦の潜水艦も近づかない、まだ流氷が張りつめたオホーツク海を砕氷測量艦「大泊」と「宗谷」を先導に豊原港を未明出航、そのまま南下して日本海を経由。おりしもその猛吹雪の舞う中、反航する対馬海流をものともせず公試速力32ノットを上回る38ノットを発揮し、驚異的なスピードでわずか29時間で呉に入港したのだった。今でも呉鎮守府から来た搭載重油の受領担当者のまるで亡霊を見たような顔が忘れられない。それは脇田にとって心底から愉快なことであった。到着後、呉海軍工廠は突貫工事で密かにそして速やかに艤装を完了し、柱島で公試を省略簡易ながらも行い、錆止めの赤黒い塗装も鮮やかに(それは単に白も黒も塗料が不足していたためであった)三隻の最新鋭軽巡洋艦は舳先を並べて沖縄へ向かう補給を行ったのだ。
 気ぜわしくあれこれ想い出しながらそして、今立ち向かっている様々な問題を考えながら、反故のような航海日誌を集め終えたところへ、森下が艦橋に戻ってきた。
 森下は羅針艦橋内の装置類がどこもかしこも銃痕だらけなのを見て、ちょっとぎょっとしたが、その姿が屈んで見えていなかった脇田がなにやら場違いな笑みを浮かべて、紙の束を掴んで立ち上がってきた顔を見てほっとした。ここに見えない副長は、自分が戻るまでの留守を預けて防空指揮所に戻って操艦指示を下しているはずだ。
「航海長、何か敵さんから素敵な贈り物があったようだね。」
「ええ、連合軍には凄い奴もいますね。爆装のヘルキャットが、水平跳弾と一緒に艦橋と第二砲塔の間をすり抜けつつ、ここを機銃掃射してゆきました。悲しいかな、右舷に抜けた途端、勇者はゼロ距離から高角砲に後ろ撃ちされましたが。」
 すると脇田は艦橋支持塔背後に一段下がったあたりをちらりと見やって、
「それで、四名やられました。慶賀野少尉が指揮して今、生き残った者と死体を後ろの廃屋へ押し込んでいます。」
「そうか。」
 脇田が廃屋と名指した電探室のほうから、当人がひどく元気が無い青ざめた浮かぬ顔で現れたのを見たので、森下は直接声をかけた。
「慶賀野少尉、僚艦各艦に現在状況を問い合わせてくれ。」
「分かりました。僚艦に現在状況を問い合わせます。」
 慶賀野は敬礼とともに低い声で返答し、それでも小走りに電信室へ行くのを斜め見に見送ると、次いで入れ替わって伝令兵が叫ぶように報告した。
「艦長!第二艦隊司令部より電信です。」
「読め。」
「<我敵大型艦十二隻以上ヲ撃破コレヲ沈黙サセリ、我ガ艦隊被害状況 矢矧中破戦闘可能 他ノ艦隊護衛駆逐艦喪失ナシ 沖縄本島ニテ現在戦闘小康状態ナリ 敵艦隊ノ追跡ヲ受ケツツアリ 水雷戦隊コレヨリ突入サセル 貴艦隊ハ敵航空機ヲヒキツケ更ニ西進セヨ>」
 この吉報に艦橋内は皆の喜びにどよめいた。口々に「やった、やった。」と騒いでいる。
「これなら我々の努力も浮かばれそうですな。」
 そんな周囲の中で、脇田の落ち着いた声を聞きながら、軽くうなずきつつ森下は改めて煙草に火をつけると美味そうに目を細めて洋上を見やった。砲煙が漂う洋上は、それでもきらきらと煌めいている。
「もっとも我々の任はなかなか解いでくれないですね。」
 同じくその方向に視線を向けながら、珍しく航海長がそうこぼすのを聴いて、森下は眉を上げて微笑んだ。
「それこそ、我々の望むところじゃないのか?え、航海長?」
 そんな会話をしている間、ほんの少し、そう数分だが戦闘に妙に間が空いた。「伊吹」への敵航空機の攻撃はなにか考えているようにストップし、眼前に広がる広大な蒼穹に薄暮を予告する黄金色の雲が流れて行く中で、数十機の機影が遥か遠くに認められた。電探が破壊されたままで見張員の目に頼らざるを得ない今、この気象条件は幸か不幸か戦闘がしやすい状態には違いない。編隊はかなり遠方の高空をミツバチの群れのように飛び回っている。高角砲の射程外だったが、それでも弾のある限りとばかり、両舷の高角砲がガンガン弾幕を張っている。
「「鞍馬」からです。<被弾12被雷2 浸水増大ナレド傾斜復元チュウ 速力18ノット>」
「「富士」はどうした?」
「返答ありません。」
「「鞍馬」に信号を伝達させよ。」
 戦闘時の混乱でまばらに離れてしまっている各艦を改めて双眼鏡を取り上げて眺めてみると、「富士」はちょうど「鞍馬」左舷後方でその上部構造物が邪魔して今のところ見張所からよく見ることができなかった。しかし、もうもうたる黒煙をあげており火災が起こっているのは判別できた。
「「鞍馬」から返信です。
 <「富士」ヨリ旗流信号。現在戦闘中我被雷多数 左舷缶室ニツ注水 傾斜6度 主砲使用不可 速力10ノット以下>」
 聞くと森下は直ちに伝声管に怒鳴った。
「高射長!主砲撃てるか?」
『各砲側照準ですが大丈夫です。たった今、3番砲塔も生き返りました。』
「よぉし、直ちに左砲戦用意!目標、僚艦「富士」上方の敵機。測的完了しだい撃ち方開始せよ!」
 それを受けて脇田が怒鳴った。
「防護版上げろ!副長、主砲撃つぞ!」
『おぅ、いつでもどうぞ!おっ、来た来た!頭上急降下爆撃機!機関いっぱい、面舵いっぱい!』
 渡邉の元気な声が伝声管から帰ってくる。転舵すれば主砲が照準できないが、やむをえない。「伊吹」は出しうる速力をできるだけ発揮してゆっくりと艦体を傾けた。「渡邉”艦長”張り切っているな」森下はほくそ笑んだ。
『なんだなんだ、舵切ったら駄目だぁ!馬鹿野郎っ!畜生!』
 死んだ川村砲術長ならそんなことがあっても黙っているであろうが、気短な那須少佐は遠慮が無い。これには森下は苦笑せざる得なかった。
『当て舵ぃ!舵中央!ようそろ!』
渡邉が割とのんびりと操舵指示をするのが、妙に間延びしていて高射長の叫びと対照的だった。それに同調するようにやはり「伊吹」もまたのんびりと舳先をめぐらして、まるで今そこに会った危険を避けたことを意識していないかのようだった。と、躊躇無く落ちてきた爆弾は至近弾となって、左舷中央の舷側へ水柱を立て、巨大なそれが崩れて衝撃波と共に「伊吹」の艦体を激震させた。すぐに唸り声を上げて瞬く間に急降下爆撃機が後ろに抜けてゆく。それを高角砲の砲火が追ってゆくが、これは取り漏らして敵機はそのまま水平線へと消えてゆく。
「高射長に伝達。各砲、三十秒後に射撃開始だ。」
これで高射長も勘弁してくれると良いが。そこへ今井も艦橋に現れて、素早く敬礼を交わした。
「艦長、お待たせしました。」
「お、今井大尉、もう大丈夫かな。」
「はい。」
 森下はその顔を見てから、ちょっと間をおいて、一言口にした。
「そうか、ご苦労。」
 再び野太い爆発音が鳴り響き、二人の会話に割り込んだ。ついで巨大な至近弾の水煙が前方に2つ立ち上がったかと思うと、それが滝のように崩れ落ちて艦橋に蔽いかぶさってきた。防護版は半分上げたままであったので、艦橋内に塩水がどっぷり入り込み、二人は体を押されててしたたかに床へ叩きつけられた。その後も入り込んだ水は、要員たちの足下を濡らした。
「おっと、火が消えた。」
 立ち上がりつつ、森下は湿気てしまった煙草を惜しそうに煙草盆に突っ込んで、それから半開きの窓枠から虚空を舞う敵機編隊を睨み付けた。
「いま続いているこの戦闘、もうじき薄暮になる。そうなれば航空機攻撃は不可能だ。闇に紛れて沖縄に入り、陸上とは夜戦で艦砲射撃が出来る。問題は潜水艦だな。「満月」「新月」は?」
「われわれ三隻の対空巡洋艦の周りをぐるぐると猟犬のように回ってくれています。」
脇田が答える。
「護衛駆逐艦のほとんどを第二艦隊へ送ってしまった今は、二隻だけが頼りだな。さて。」
「我が艦の水探も機能していますが、砲撃を止めないと機能できませんし。」
「この敵航空機の攻撃さえしのげば。しかし。」
いつの間にか左舷を指向した六十七サンチ重高角砲の発射警報が鳴ってその言葉を遮った。兵員が防護板を慌てて上げる。暗くなった艦内に赤色灯が点るのを待つか待たぬうちに、主砲が火を噴いた。衝撃波は艦内にも轟く。立て続けに三斉射。その後すぐに再び、防空指揮所から降りずに勇敢にもブルワークの陰に隠れて主砲の衝撃からかろうじて避退していた渡邉が雷撃機を認めて面舵一杯を命じた。
「陸が近づいています。左舷方向 距離8000」
 福井が防護板のスリット越しに測距して、ややかすれ声で報告する。
「いよいよ沖縄本島ですか、ようやく、そうかぁ。」
 脇田が静かに一人ごちるのを聴きながら、森下は人知れず疲労した頭脳を叱咤して、今、膠着している戦闘状況からの脱出について素早く思いを巡らしていた。