遠い潮騒〜藤原伊吹中尉16歳((外伝その2))

「藤原中尉!」
1番砲塔の前で見かけたところを、まず誰もいないことをしっかり確認し、福井は思い切って大きな声を彼女に掛けた。そして振り返った伊吹をすかさず独逸製小型カメラで捉えてシャッターを切った。
「あ!」
伊吹は振り返って小さく叫び声を上げた。
「福井中尉、写真撮るなら一言言ってくれればよいのにぃ。」
潮風に長い黒髪をたなびかせつつ、ゆるやかな曲線で体と腕にそれを絡ませながら、伊吹は福井に笑いかけた。
「いや、すまない。まずかったかな?」
「とんでもないですよ、どうぞ、気になさらず。お写真なんて撮られるのは久方ぶりですわ。」
伊吹は澄んだ瞳で福井に微笑みかけた。
「もうじき、お別れですしね。」
「帰るのがちょっと辛いなぁ。伊吹君がこの艦から降りるなんて、考えたくないなぁ。」
「私の役目はもう終わりましたしね。ありがたいお話ですわ。ふふ。」
伊吹は嬉しそうに言って、懐かしそうに主砲を眺めた。
先々週、67サンチ砲には最近導入された新型のVT信管付有翼弾と誘導装置を実装したことで、もう伊吹の”能力”に頼らずにすむことになったため、彼女はようやく陸に上がれることになったのだ。
思えば今まで長きにわたり機密秘匿のため、彼女は上陸もままならない言わば幽閉された状態だった。
「あ、トキが私を捜しているみたい。」
急に伊吹は目を細めて小首をかしげて言った。精神感応を使っているのであろう。トキは彼女のお世話係の婆さんだ。マナーやなんやかんやに非常にうるさいので福井は苦手だった。
「福井さん、お先に中に行かせて頂きますね。では。」
真顔で福井の目を射ると、すっと敬礼し伊吹はふわりと髪をなびかせて甲板を小走りに駆けて消えていった。
残った福井はカメラの蛇腹を畳み、レンズを格納した。
平和は戻ったが海軍は相変わらず忙しい。実際、まだ海軍省は戦争は続行中であると宣言しており、連合艦隊は臨戦態勢を解いていない。我が大型対空軽巡「伊吹」も再び外洋へ派遣されるだろう。シナ海か、朝鮮半島か。
陸に戻った伊吹と再び会える日はいつになるのだろうか。
「明日横須賀に帰港したら食事くらい誘うかな。もっとも今井中佐にもお願いするようだろうけど。」
一人ごちて、振り返った洋上を見ると、遠く潮騒が静かに響く中、僚艦「鞍馬」が、メインヤードにちょうど了解旗を上げているところだった。