〜彼方からの閃光〜#22

 艦橋から降りて二人は弾道管制室の前に立ってそのハッチドアをちょっとの間、見つめた。
「伊吹君、いいんだね?」
 ハッチドアのクリップに手を掛けようとした時、ふと今井はためらった。
「はい。」
 伊吹の決心は固い。今井はちょっと思い悩んだ様子だったが、意を決して十二個のハッチドアのクリップを一個一個はずしていった。クリップをはずし終わり、重々しく重量300kgのハッチドアが伊吹の目の前で開かれた。百二十ミリという分厚い装甲で覆われたそこは漆黒の闇が音もなく静かにただ広がっていた。それはまるでこの世ではない異世界が口を開けて伊吹を飲み込もうと待ちかまえているかのようだった。そして大尉が照明スイッチをぱちりと押すと、蛍光灯が何度も瞬き、突如得体の知れない器械怪物が走馬燈のように明滅し浮かび上がった。やがて蛍光灯が落ち着くとはっきりとそこに思念波弾道管制装置の威容が実体となった。まっすぐに前を見て伊吹は室内にゆっくりと進んだ。背後でガシンと音が鳴った。続いて入った今井がハッチを閉じたのだ。と、気圧が変化して耳がつまったようになった。
 今井がすぐ配電盤に回っていくつかのブレーカーを上げた。次いで操作卓へすがって電源スイッチを入れると、低いハム音が部屋に響き渡り無数のパイロットランプが次々に光り出していった。伊吹は装置の反対側にいって空気調整機の電源を入れてから、部屋の中心に据えられた”黒い椅子”PTR*1の点検をはじめた。もちろん何の問題もなかった。
 ふと見ると椅子の下で床に散乱した注射器の破片が散らばっていた。それはあの忌まわしい小競り合いを思い出させた。
いくつかの大きめの破片を拾ってそれを操作卓の下にある塵芥箱へ屈んで投げ入れると、そこへ今井が近づいてきて言った。
「・・・伊吹君。」
「はい。」
「・・何度も繰り返し尋ねて悪いが・・その・・これからの戦いはもうどうなるのか・・もう誰にも分からない。もう僕は・・君の側にただ居ることしかできないと想う。。」
 今井は苦渋に満ちた表情で目線を下に落としたまま拳を握りしめて立っていた。
「大尉、私は大尉がおそばにいる限り心配しません。大丈夫です。だから私の側にずっといてください。」
そう言って腰を上げて振り返り、黒髪をさらさらとすだれのように流して微笑んだ伊吹の瞳が薄暗い蛍光灯の光の下できらりと輝いた。伊吹はまっすぐ背筋を伸ばして起きあがった。
「本当を言えば今も怖いですわ。またあの切ない悲しい思いをするのはホントは嫌ですもの。でも、副長のお話を私は今は心に置いておこうと想います。さっきまで私は自分の”能力”を否定していました。こんな力なんて欲しくない、要らない、と。」
 伊吹は今井に背を向けて天井を仰いだ。何かを堪えている。
「そう・・それで私は人を殺してきたんだと。」
 両手を持ち上げて手のひらを組み合わせると神に祈るように伊吹は胸にそれを押しつけた。網膜に様々な地獄絵を思い出す。撃墜されて落ちてゆく沢山の攻撃機、コクピットから自分をにらんだパイロットの苦悶の顔、被弾して負傷し血糊の海が広がった艦内、手足をもがれ酷いやけどに苦しみあえぐ兵士達、劫火に包まれながら激しく爆発する味方の艦たち、荒れる波間に送り火のような青白い炎を残して沈没していった駆逐艦、まだ丸一日経っていないのに、敵も味方も多くの人間が死んだ。苦しすぎて伊吹は涙より心が削れるような身が切られるような想いを拳に込めた。
「でももう迷わないで進もうと想います。」
 そういうとゆっくりと祈るその手を組みほどき、今井の方をうつむき加減で振り返って静かに言葉をつないだ。
「今戦いのさなかで私が生きるためには私自身で道を切り開くしかないんですもの。私は心を殺してひたすら戦おうと想います。それで、その結果が、私自身が生きることを望んだ結果が、本艦の二千五百名の命を生かすことにもなるのなら・・・・そして少なくても今一緒に進む<氷川丸>も駆逐艦達も第二艦隊も救えるなら・・・最後に私は死んでもかまわない。」
 伊吹は優雅に長い髪をふわりとなびかせ体をこちらに向けながら眉を上げた。その顔はすがすがしい美しさに満ちていた。今井は辛い表情をしている。しかし伊吹は小声だがきっぱり凛とした声で言った。
「もう、沢山の艦船が兵士が失われてゆきました。もう失いたくない。」
 伊吹は祈るようにお腹に両手をあててうなだれたが、すぐに顔を上げて言った。
「私は私が生きるためにみんなと生きてゆきたいのです。」
 じっと透明な輝きを失わない彼女の瞳を見つめていたが、今井は小さくうなずいていった。
「君のその想いはかならずみんなに伝わる。」
 今井は言葉を探した。が、気の利いた話はできそうもなかった。ただ伊吹の決意が自分の知らないところでわずかな時間で紡がれていたことに驚き、悲愴なその決意に彼は自分が何を手伝えるのかを考えた。まだ大人にも及ばない歳はの彼女がそのような生きることの意味を戦いのさなかで見いだし、これからどう考えても過酷な戦闘を、その運命を、正面から立ち向かっていこうとしていることに畏敬の念を抱いた。彼女は自分の手の届かない神の領域に一人立っている。
 今井は乾いた口の中で生唾を飲み込んでから、ようやく言葉を発した。
「いっしょに出来るだけのことをしよう。うん、君に僕の命も預けた。」
 伊吹はそれを聞くとばっと今井の懐に体全体で飛び込んだ。
「今井大尉!」
 胸の高さで伊吹の強い目が自分を見る。その強さに今井は圧倒されつつも彼女の体をしっかりと両腕で引き寄せた。
「抱きしめて。強く。」 
 今井はためらいもなく伊吹の体を思い切り抱きしめた。優しく力強く。二人の間に熱いものが通い、白い肌の顔に赤みが差す伊吹の唇に自分のそれを重ね合わせた。それはわずかな時間のことだったが、二人には無限に感じるほどに長い時間であった。
 と、ゴンゴンとハッチドアを叩かく音がした。
「金山上等兵以下六名、副長の命によりただいま弾道管制所任務に参りましたっ!」
 二人はお互いの顔を見合ってから、すっと身を引いた。伊吹は肩をすくめてくるりと向こうへと数歩足ずさった。今井は靄がかった頭をぶるぶると震わせて、ぱっと立上がって怒鳴った。
「おおっ!入れ!」
「大尉!戻りました。」
 がたがたとハッチを開いて、六名の技術兵が入室してきた。皆、服装こそ大分薄汚れていたが、彼らの表情は明るかった。
「おお、皆無事か。また、これからよろしく頼む!早速だが、各自持ち場点検報告せよ。」
全員が整列して敬礼するのを満足げに眺めて今井は力強く敬礼を返した。各自は直ぐに配置について、それぞれの担当機器の動作確認を始めた。火が消えたように冷ややかだった管制所室内は緊張感と熱気でよみがえった。
「よし。准尉も配置に付きたまえ。」
「藤原伊吹、配置に付きます。」
 今井の号令に元気よく答えて伊吹はさっと敬礼し”黒い椅子”に向かうと慌てずゆっくりと体を沈み込ませた。それを足早に闊歩し追うと今井自ら伊吹の両腕両足に端末のベルトを取り付けて、最後に綺麗に切りそろえられた前髪も美しい頭にレシーバーたる”銀の冠”を装着させた。それからぶら下がる色とりどりのコードケーブルが白いセーラー服姿の少女に不思議な美しさを醸し出している。
「伊吹君、ベルトはどうかな?」
 小さい声でそう尋ねる今井に伊吹はこくっと頷いた。いつものように今井が取り付けてくれる各部レシーバーのベルトは緩くもなく強くもなく、全く違和感がなかった。今井はよしよしとうなずくと、”黒い椅子”の艦尾側にある端末集積装置へ回りメイン操作卓にいる技術兵に号令した。
「思念波弾道管制装置起動せよ。」
 すっと目を閉じると伊吹はその時がくるのを待つ。何ら音も立てずにI/Oに入出力電圧が掛かると、頭両手両足の神経が軽くショックを受けて筋肉が震えるのを感じたが、直ぐに大型対空軽巡洋艦<伊吹>の全てが再び身体に浸透してくるのを感じた。今井はレジーバーからの信号をオシロスコープでモニターしていたが、その伊吹の体の様子に問題がないとことを確認すると操作卓へ戻った。
「プリラインセレクター動作チェック ヨシ。電圧ヨシ。」
「発令所射撃指揮盤接続せよ!」
「発令所射撃指揮盤接続接続 ヨシ!」
兵員たちが所定手順に沿って無数にある左右の壁のセンサーコントロールスイッチを順番にテンポ良く入れてゆく。トグルスイッチは全艦に張り巡らされたセンサーの数に合わせて320箇所もあるため一つ一つ各部センサーと接続し動作確認を行うのはそこそこ時間がかかった。その中でも二十二箇所が戦闘による損傷であろう反応が無いあるいは感度不良となったが、幸い致命的ではなかった。予備センサーとその回路を開いてだめな個所は今井自らが修理に行くことになった。
 センサーが接続されてゆくたびに伊吹の頭脳に各部のダイレクトなイメージが形成されてゆく。射撃指揮装置の複雑なメカと要素データがまず閉じた瞼の裏に描かれた。やがて体の中で<伊吹>のすみずみが染み込んでくる。缶室のボイラーの熱さ、機械室の鼓動、タービンの激動、六七サンチ重高角砲の重々しさ、舳先を舐める冷たい青波、スクリューと舵がかき分けた波が後ろになびいてゆく心地よさ。伊吹は次第に雄大な我が身を静かな涼やかな大洋に浸している実感がわいてくることにさわやかな心地よさを感じていた。。
 更に艦の外への回路が接続されると伊吹は思念波を外へと開いた。たちまち眼前に暗い大海原が広がり無限の宇宙が広がった。昼間の嵐がうそのような静かな洋上はるかに満天の星が輝いて、その星明りと護衛する病院船の灯火で海面がほのかに輝いていた。その<氷川丸>は相変わらず赤い識別灯を美しく輝かせて白い船体に不思議な神々しさをかもし出している。伊吹は宝石のような輝く彼女を見てそれを護衛することの喜ばしさを感じた。ふと気がつくと冷たい海温を感じて、思わず身震いすると艦本体まで身震いさせてしまい、乗組員は小さく揺れたことに気がつく者もいたくらいだったが、伊吹がその犯人だとは誰も気がつかなかっただろう。どこまでもどこまでも遠い水平線を目指して伊吹は進んでゆく。波は穏やかで彼女の進むことを優しく包むかのようだった。
「准尉、調子はどうかな?」
 今井の質問に対して、伊吹は陶然とした面持ちで応えた。
「問題は特に感じません。でもなぜでしょう。今まで以上に様々なことが感じられます。隅から隅まで本艦のことが判るし、外の風景も海中の様子もはっきりと感じられます。」
 伊吹はいつのまにかセンサーを足懸かりとして何も無い部分への掌握ができるようになっているのに気がついた。思念波弾道管制装置は、今までないほど完璧に巨大巡洋艦自体を藤原伊吹自身へと一体化することに成功しているようだ。
 チェックとテストは装置側でもややしばらく行われたが概ね問題は無いようだった。今井は万が一を考えて時間の許す限り壊れた各部センサーの修理を行う事にした。思念波弾道管制装置が無事、伊吹と接続できたことを確認できたので、今井は自ら重い機材を背負って全長320mの艦の隅々まで走り回るべく技術兵2名を連れてハッチを飛び出していった。
 今井が居ない間、今までに無い<伊吹>との一体感を味わいながら伊吹は洋上に思念波を思い切りできるだけ遠方へと伸ばしてみた。海中深く水中探信儀のビーコンが響き渡っているのが判った。水深がどれくらいあるのか判らなかったが海底も感じた。艦隊の外側で護衛する駆逐艦や前方を掃海具で露払いするその先にも思念波を及ばせることができたが、幸い機雷のような異物は艦隊の周囲には感じられなかった。どうやら伊吹は<伊吹>関係する艦船をターミナルとして思念波を広げられるようになったことが判った。伊吹は次第に自信が付いてきた。思念波は風や波や海流さえ手応えがあるくらいだった。
 ふいに長笛が吹聴されたので、伊吹は戦死者を水葬する時間であることに気がついた。後部作業甲板では手隙の者だけで戦死者の水葬の儀が執り行われはじめたのだった。伊吹はそれを”見て”思念を向けて誰にも知られないように参加することにした。錘をつけた帆布にくるまれた戦死者がいっぱい見える。それはあまりの数の多さから既に水上機を持たない格納庫にしかたなく積みあがられている始末だった。やがておもむろに艦長代理として弔辞を角谷内務長が読み上げ、ライフル銃が弔砲をつぎつぎと撃つ中、骸はつぎつぎと白い航跡の中へと投ぜられた。暗闇でスクリューが沸き立てる白い航跡に何のよどみもなく死者たちは海中へと消えていった。
 渡邉は艦橋の右舷見張所に立って艦尾を見つめてた。作業甲板は上甲板のより一段下がっているから艦橋から彼らはを見ることは無かったが、弔砲の音を聞くと渡邉は帽子を脱いで胸に当て、右手で最敬礼をした。背後の全員も艦尾を向いて同様に敬礼している。
 と突然、また艦が身震いした。排水量5万トンの彼女の今回の身震いは大きなピッチングで油断していたものを軽くよろめかせるほどだった。各部ブロワーの音が大きく響く。10数本もの煙突の蒸気捨管からいっせいに白い蒸気が吹きあげた。か細く本当に小さく汽笛がすすり泣くように鳴った。
「伊吹が泣いている。」
福井が顔を上げてそううめきつぶやいた。そう、まさしく懐深くから伊吹が水葬を目の当たりにして泣いているのであった。彼女の悲しみは全艦に震えとなって伝わって、艦内にいて時間通りにも祈祷をささげる者も作業を続けている者も、その強い悲しみを心に湧き起こさせた。
「副長。」 
そんな感傷に浸るまもなく、渡邉は通信兵に呼ばれた。
「変針位置に来たそうです。」
 静かに従兵が声をかけてきた。中を覗くと脇田がそろそろだというように目配せをしている。
「よぉし!戦隊全艦船に通達だ!航海長、変針指示を出してくれ。」
 渡邉は元気良くこぶしを振り上げて叫んだ。辛気くさい面目の顔はばっと引き締まり渡邉の次の命令を待って硬直した。

「各艦に電信せよ。”艦隊速度そのまま。変針方位175。順次変針 艦隊速力十八ノット 隊列同じ”」
渡邉は続けて叫んだ。
「取り舵ぃ15 機関右黒20 」
「取り舵ぃ15 機関右黒20 ようそろー。」
伊吹は自分の体が横滑り始めるのを感じる。
「艦首回りました。<新月>艦尾 1200」
 振り返れば艦隊勢力は大型対空巡洋艦1、防空駆逐艦1、護衛駆逐艦4 そして病院船1と成っていた。
 呉を出てから勢力は3割以下である。奇跡的にここまで来れたとはいえ、誰も彼らを羨む者は居ないだろう。目指す沖縄はもう手が届くところにある。しかし連合軍は不気味に静かにその刃を研いで待ち構えているのは間違い無いのだ。戦いは普通に考えれば帝國艦隊に分は無かった。敵はそう考えているはずだった。伊吹が居ることを敵はまだ知らない。ただ海の戦いの七不思議のように偶然あるいは予期しない兵器による不思議と考えているだろう。しかし戦いは投入する物量が大いにものを言うものだ。敵も味方も今は気象条件も五分五分、しかし帝國に数十倍という物量と高い技術の攻撃力が彼らをして十分な自信を持って今や遅しと迫る帝國軍をあぐらをかいて待ちかまえているのだ。
 波を蹴立てて進む我が身を伊吹は誇らしく思った。巨大且つ美しい巡洋艦伊吹であることは、誰もなしえない優越感を芽生えさせた。今、破滅の罠に飛びこもうとしているとしても、彼女はそれを恐れるものではなかった。『大丈夫。どんな攻撃も跳ね返してやるわ。』伊吹は固い決心と生き残る自信を巨大な巡洋艦の奥深くにふつふつと熱く秘めた。
 艦橋の臨時通信室では先ほどから逆探は激しく敵電探の電波を傍受はじめた。その出力は増幅器がパンクしそうになるほどになり受信器オシロスコープは最弱に絞らなければならないほどだったし、四方八方からそれは受信された。完全な四面楚歌である。敵は罠を閉じ始めたのだ。一種の威圧だった。
 渡邉は灯火管制を解いた。灯火を掲げる<氷川丸>はもはや沖縄本島からはっきりと視認できるところまで来ている。敵電波が完全に我々を包囲している以上、隠し立てしても意味が無かった。それよりも直接的な戦闘が始まった時、暗く狭い海上で衝突を避けるには、目で視認できるほうが良い。過去、南洋で夜戦中何度も衝突の煮え湯を味わっていた渡邉は、大時代的だが、航海灯と探照灯が今は不可欠だと主張した。そして渡邉は胸中深く密かに伊吹の”能力”が自分たちを守ってくれることを信じた。信じるほか無かった。

20時58分
「各艦 自艦保全ヲツクセ 隊列そのまま 艦隊進行方向180」伊吹から伝達されて艦隊各艦が発光信号により転舵を始めた。
この時以降、戦隊は纏まって連携された艦隊運動をすることは2度と無い。

*1:正式名称はPri mentalTelepathy Receiver