彼方からの閃光((オリビエ・メシアン 「Eclairs sur L'Au-dela...」)) #1((改訂))

 洋上は,折りしも分厚く低いそこの平らな層積雲の下で風速八ノットの強風と鉛色に鈍く光る長く大きなうねりで満ちていた。九州坊ノ岬沖南西に百三十キロメートルという暖かいはずの海域であり、しかも四月初旬春だというのに気温は猛烈に低く、襟を立てなければ寒くて、たまに吹き被る飛沫かあるいは糠雨か冷たい水滴を感じれば思わず身震いするようだった。水平線遙かには、かろうじて一直線に輝く細く僅かな光芒が、この強風の天候がそこまで続いていることを指し示している。海面は,それを基準にうねりも大きく長い波長を取って随伴の駆逐艦を飲み込もうと何度も試みていたが、しかし、我が駆逐艦はうねりに乗りながらも、その大きな青波に飲み込まれるより早くその’はらわた’を食いちぎり海水を貪欲に掬って、白い血しぶきを上げる日本刀のごとく鋭い舳先に綺麗な白波のアーチを吹き上げていた。
 風はいよいよ募るであろう。青波はますます大きなうねりを増すであろう。凶暴な三角波がやがて我らを襲うであろう。駆逐艦たちを率いて、それでも帝國軍艦「伊吹」は、迫り来る巨大なうねりをまるで一蹴するがごとく突き進む。三百メートルを超す長い船体はまさしく戦艦以上の巨大なものだったが、その割には、ほっそりとしている印象があるのは彼女が巡洋艦であり、その正当な血筋であることを物語っていた。彼女は居並ぶ随伴駆逐艦と違い、うねりに身を任せるようなことは無く、そのまま大波を蹴破ってまっすぐに航走し、ピッチングもローリングもしなかった。彼女のしなやかで美しい船体には、その前後両舷に短い翼を付けて揺れに対して船体を安定させるためのフ式可動減揺装置というものが付いてる。
 今、奇妙なことに「伊吹」は普通見られる軍艦色と呼ばれる灰色の塗粧をしていなかった。錆止めの赤い塗粧のままである。だから、かなり遠くからでも巨大な赤い船体は目立っている。その姿はなにかに対して怒りを露わにしているかのようだった。怒り…何へ?彼女の怒りとはなんであろう。今、すこしでもダメージを与えんとする徐々に巨大になってゆく波浪に対してか?それとも彼女を駆り立てている人間が犯している戦い、そして敵への怒りなのか?それとも・・・
 「伊吹」に続いてほとんど同じ形をした大型艦が二隻、その航跡を一にして相互距離約千メートルの単縦陣を組んでいた。「鞍馬」「富士」と呼ばれる「伊吹」型大型対空巡洋艦の二,三番艦である。いずれも「伊吹」同様の真っ赤な姿で、非常に長い船体に超巨大なお椀型をした異様な単装砲塔を前後二基づつ背負いに四基搭載しており、それに比して非常にコンパクトな艦橋とこれまた異様に大きな傾斜された大型誘導煙突、艦橋の三倍の高さはあろうかという四脚檣に数種類の電探がくるくると旋回しているという、明らかに戦艦とは異質な形状の戦闘艦であることを示していた。その名前に冠するとおり、彼女たちは対空戦闘に特化した”巡洋艦”であって、装甲厚は最大で百二十ミリに過ぎず、船体の長さに対して幅が狭いいわゆる高速船形であった。艦首は戦艦大和型に酷似している大きなフレアを持ったもので、その下には大きなバルバスバウを持っている点も同様。上甲板縁は、しなやかなシアーをもって優雅に下がって行く点も同じで、ここに背負い式に巨大な単装の主砲が二基搭載されている。しかしそこから大和と全く違うのは、艦体長さの三分の一からのシェルターデッキの存在で、上甲板から一段高くなって居るそこには高角砲群が多数並んで空をハリネズミのようににらまえている。この高角砲は長十サンチ連装高角砲と呼ばれる秋月型及び満月型にも搭載されて威力を誇っているモノで、その数、十八基三十六門と恐ろしいまでの数で個艦防御を担っていた。高角砲甲板は更にながさ三分の二で一段落ちて背負い式に後部主砲二基が若干離れて配置されている。艦尾はトランサムスターンと呼ばれるすっぱり切り取ったような形状でこれも海軍としては初めての大型艦適用だが、曲線を廃して工数を稼ぐことと水切りの良さ、後部甲板の面積確保と大きなメリットがある。ここには二基の呉式五型カタパルトが両舷に載せられており、これもまた大和型と全く同じ三角錐型のトラス構造である通信アンテナ支柱と揚重クレーンが載せられている。
 その巨大な単装砲は、口径六十七サンチ四十口径の前代未聞の高角砲である。この高角砲は零式重高角砲とも呼ばれ、対空用に特化した巨砲であり、大口径のため射出弾の重量に制限があり、戦艦大和に積まれている九四式四十サンチ砲(正四十六サンチ砲)のような対艦のための徹甲弾などは発射できない。その砲の繰り出す弾丸は二種類開発されており、いわゆる改三式弾と呼ばれる内部に無数の焼夷弾を含んだ対空弾「三式改二型対空散弾」と弾頭が裂けて内部から飛行機型の小型爆雷が百個射出される「五式対潜弾」というもので、どちらも弾頭に時限切り離し可能な噴進装置とそれを挟んで弾体保護部分を持ち合わせている二重発射方式を持っている。水平の射程は約二万九千メートルと巨砲の割にはさほどの事は無いが、垂直方向仰角八〇度では成層圏を飛ぶ爆撃機を攻撃するには十分な射程一万五千メートルを持ち、基本的にそのような対空用途に使われるものなので大きな問題は無かった。三式改二型対空散弾は迫り来る敵攻撃機を洋上遙かに捉えることが出来、放物線を描いて敵機頭上もしくは編隊内部で爆発、無数の焼夷弾と油弾を半径二千六百メートルの円錐状に散らばせて敵機を一網打尽にするように企図されている。ただ、四門同時の斉射は船体へのダメージリスクが大きいので各砲門は3秒毎の間隔を開けて撃つことになっている。弾薬装填は、機力による半自動式装填式で次発発射までの時間は、四十秒から五十秒かかり、これは大きな弱点ではあった。もっともこの重高角砲は航空機一機一機を追尾して打ち落とすものではなく、あくまでアウトレンジの形で遠方から広大な弾幕を敵編隊単位で投網のように拡げて、積極的に一網打尽航空機攻撃を行うものである。
 この重高角砲には射撃指揮装置として超広角対空用測距儀が付いている。広範囲に活動する敵編隊をひとまとまりとして捉えるには従来の艦対艦用の測距儀は視野角が狭くて高速で動く編隊運動を捉えて追尾するのが難しいことから、口径15サンチの望遠鏡を5つ並べてこれを接眼部で合成し最大30度という極めて広い視野角を持たせたものである。
 ほぼ同じ姿の彼女たちを折り囲むように戦時急造型駆逐「松」型「梨」「椛」「桃」「柳」「楮」五隻とその改型である「橘」型「初桜」「楓」「楡」の三隻、新鋭の満月型対空駆逐艦二隻「満月」「新月」が周囲に敵潜水艦が居ないか、目と耳あるいは五感といわず第六感まで凝らして輪形陣で護衛していた。各艦の距離は「伊吹」らを中心に約二千メートル。この作戦のため、彼女たちは定数倍の爆雷を装備しており、個艦を守る以上の対空弾は半分以上降ろしていた。彼女たちを飛行機から守るのは、彼女たちが潜水艦から守る「伊吹」たち三隻の仕事であった。
 松型及び橘型は、いわゆる戦時急造型駆逐艦で最高速力こそ二十八ノットだが、小型な割りには十二.七サンチ四十口径高角砲連装一基、単装一基の計三門、六十一サンチ魚雷発射管四連装一基、対潜対空に非常にマッチングした優れた駆逐艦であった。松型タイプシップで、それの更に簡易設計化を推し進めたのが橘型であり、いずれも大きな性能差はない。外見上は艦首形状が松型は連続線形の滑らかな艦体であったが、橘型はナックルを利用してほとんど曲線を用いていないシンプルな形状であり、マストなどの細かい違いこそ有れ、ほぼ同型艦と言えるものである。開戦以来、マスプロ造船されたもので、海上護衛総司令部の創設の昭和十九年以来、その作戦の主役でもある。
 輪形陣の先頭に立つ二隻「満月」「新月」はかの有名な「秋月」型防空駆逐艦の簡易改良版であり、やはり簡易工作を企図した直線を多用した上構や艦体であるものの、長十サンチ連装高角砲四基と九十一式方位射撃装置とあいまって、相変わらず強力な対空艦として戦列に並んでいる。また、電探や音探も充実しており、索敵能力は今までの駆逐艦の能力を超えるものであった。秋月型と大きく異なるのは全廃した雷装と、そのスペースを利用して充実された新型爆雷を初めとする対潜攻撃の装備であろう。洗練されたスマート且つ美しい戦闘艦であり、その涼しげで心地よい響きの名前とよい、駆逐艦乗りなら一度は乗って戦場を駆け回ってみたい憧れの的であった。
 特に「満月」を指揮する沖野中佐は前代未聞のまだ二〇代の若い艦長だが、兵学校トップの天才でありダントツの統率力と判断力ですでに四海戦を生き残ってきた猛者であった。今回対潜戦闘のエキスパートとして、第十駆逐艦隊の司令兼「満月」艦長の大抜擢を受けたのだが、ある伝説によるとスリガオ海峡戦で彼は副長として配属されていた航空巡洋艦「最上」で、敵弾を受けて戦死した艦長に成り代わり、その後「最上」の舵を取り、見事な操艦でその後の敵弾を被ることを許さず、尚かつ対空戦闘で十二機の雷撃機を打ち払い、無数の魚雷艇へは暗闇の中、座礁を覚悟で艦首を向けて俯角で十五.五センチ三連装主砲を撃ちまくり、魚雷発射を許さず追い払い、結局艦隊は陽動作戦失敗して悄然と帰投するも、その途上小笠原島近海で、米潜水艦「フラウンダー」の雷撃を受けるが回避、これにただ一機残った水上偵察機を放って追跡、水上機は1時間後浅く潜航する「フラウンダー」を発見し観測機誘導で主砲攻撃が成功し一発が命中、舵機損傷した「フラウンダー」は結局浮上してしまい、急行してきた「最上」は拿捕してしまった、という凄い話がある人物であった。
 この部隊には、もう一隻随伴の貨客船があった。まっ白な船体に緑の太いラインと二つの赤十字を描いている病院船「氷川丸」である。戦前は元日本郵船のシアトル航路に配されていたが、昭和十六年秋に海軍に徴用されて以来彼女もまた南方を中心に活躍していた名のある病院船であった。非常に危険なこの特攻作戦に、どうも異質な彼女のこの配備であるが、戦艦大和率いる第二艦隊が沖縄突入成功すれば、沖縄の傷病兵を救いに向かうための配慮とされていた。
  
 これが天一号作戦における第二艦隊の前哨護衛を行う、敵陽動及び残減部隊「第八護衛戦隊」の全容である。艦隊の作戦目的は、「沖縄突入する戦艦大和を援護し、敵航空機を陽動、これを殲滅すること」である。


 第八護衛戦隊の敵艦載機第一波の迎撃は、あっさりと終了した。まさかの恐ろしい対空砲撃に、米軍はなにもその結果を想像できず、真っ赤な錆止塗装(それはまるで未完成の船のように見えた)で非常に目立つ大型艦三隻目指して、まっすぐに突っ込んできてくれたのだった。しかし、今度はそうはいかない。我々の正体はこれでもう、完全にばれている。良くもここまで「伊吹」たちはその実態・攻撃力を隠しおおせていたものだ。樺太からの回航、呉での主砲搭載、そしてカムフラージュの巨大な”帆布”、赤い錆止めなどなど、様々な苦労を想いだし、「伊吹」艦長兼第八護衛戦隊司令 森下信衛少将は、一年前、艦長を前任していた「大和」をなんとなく比較していた。かの「大和」もまた非常に苦労して機密を守った経緯がある。
 さておき、米軍はこの状況をすぐに分析し、なんらかの手だてを講じて再び来襲してくるであろう。
 若い当直士官が大きな三角定規とディバイダを駆使して現在の位置を書き込む海図を見つめて、森下は煙草の最後の一吸いを深く飲み込んだ。『どこから来るかな』森下は目を細めて、顔を上げ、短くなった吸い殻をつまむと一旦目線を中に漂わせた。そして次第に悪化する天候と低くたれ込めてきた黒い雲を海図台の向こうを見やった。沖縄の多数の空母が放った次の攻撃機はもう間違いなく間もなくやってくる。どこからくるのか、何機来るのか、編成は。敵の攻撃機も雷撃機も大型で長い航続距離を持つ。まっすぐ飛んでくる必要は無い。「大和」ほかの第二艦隊は今、われわれのある洋上から十二キロメートルほど西北西にある。「伊吹」たちの砲撃能力を持ってすれば、彼らを越えて強力無比な対空弾三式弾で十分擁護できる距離である。今はなりを潜めているが、昨夜は非常に盛んな無線が傍受されていた。米潜は間違いなく我々の行動を把握して、ただ、我々の水偵の哨戒と強力な駆逐艦の爆雷攻撃を恐れて敢えて攻撃をしてこない。まして荒れてきた海上は、潜水艦行動を制限するものだ。しかし、これからもそうであるとは限らないのだ。
「この天候では対空砲撃は電探と彼女だけが頼りになりますね。」嘆息しながら副長の渡邉中佐が、横から小声で話しかけてきた。
「まぁ、それで十分といえば十分だよ、ナベさん。」にやりとして森下は中佐の胸を軽く裏手で左手で叩いた。そして艦橋右手窓に近づいて、もう指を焦がしはじめていた煙草をはじっこに常設しておく”艦長専用”と朱塗りで書かれた十サンチ四方くらいの金箱でそれをもみ消して捨てた。金箱は既に満杯だった。
 艦内電話の呼び出しが鳴る。渡邉中佐が飛びついた電話機から漏れる、『電探室ヨリ!艦橋!』のうわずった声。
 どうやら新しい煙草に火を付ける必要が出たようだ。従兵に金箱をかこうないけん、と、ちらりと想いながら、森下艦長は胸の双眼鏡を両眼に持って行き、水平線上の見えもしない敵機を探してみる。電探報告を受け副長以下各当直士官からの指令が次々と飛び交うなか、確実に本艦は第二波への迎撃の準備が整ってゆく。洋上はやや靄がかかっていて、それなりの密度で雲は低くちぎれ飛んでいる中、これからも敵機を視認するのは至難であろう。艦橋背後の巨大なマストに大型の新鋭電探が備えてあるが、副長の言うように今やこれが頼りである。くるくると回転し続ける二式七号遠方用電探は既に百浬も先の敵機群を捕まえていて、電影板の波でその姿を示している。数は判らないが、三式三号中遠距離用電探が約六十浬で詳しい敵陣容を捕捉するであろう。その内容に従って砲戦準備は行われる。各諸元要素は、本艦のほぼ中心にある小さいが装甲を施された一室にも通達され、大型計算機で成果分析がなされる。そして射撃。最後はその部屋に幽閉されている一人の少女にその運命を委ねることになるのだ。

 敵は沖縄洋上からであるのは間違いなく第一波と同じく、重い爆弾と魚雷を掴んで飛来し、我らの艦隊あるいは第二艦隊を目指してやってくる。「伊吹」の巨大な重高角砲は、まだ静かに砲身を前方に向けていて、時折大きな飛沫を上げる艦首はかなり波が高くなって来ていることを示しているが、動揺軽減装置のせいかあるいは「伊吹」のもつ安定性のためか、まだ揺れが酷い感じに想われなかった。
 森下は、新しい”光”に火を付けると左手にちょっとの間もてあそんだ後、、艦首を眺めやりながら窓枠に右手の肘を突きその手で顎をさすりつつ、吸口を口に持って行った。ここはひとつこちらから迎え撃ってみるか。作戦指令書には、”積極的防空ヲオコナウベシ攻撃結果大ナリ”と暗に待たずに敵を迎え撃てと進めている。

「僚艦に発光信号だ。あ、旗旒信号も行え。」

 一呼吸置いて彼は抑揚無くごく事務的に指令を出した。

「旗艦より各艦に連絡。直ちに増速。第四戦速。西南西へ。我に続け。」

「帝國軍艦 伊 吹」プロローグ*1 - 縹渺舎
彼方からの閃光 #2*1 - 縹渺舎