彼方からの閃光 #2((改訂))

 「第七戦速。おもーかーじ一杯。」森下は命じた。
 「第七戦速。おもーかーじ一杯、よーそろー。」
 当直航海士の慶賀野少尉が復唱し操舵室への艦内電話に元気に極めて明瞭に叫ぶ。速度指示器は第七戦速を指し、転舵指示器が点灯する。慶賀野少尉の細面は、寒さもあるかもしれないが、この緊張する運動を目の当たりにして、紅潮しているのがありありだ。しかし、巨艦「伊吹」の舳先は簡単に回らない。それでも、艦尾の2軸2枚の舵は半平衡舵というもので、従来の大型艦艇では例が無く帝國初の採用、舵の効きは非常に優れていた。十秒ほどすると、ゆっくりと水平線が回り始め、向かい風となり波浪がまともに艦首をぶつかり出すと巨大な飛沫が何度も何度も甲板を覆い尽くすように吹き上げ、「伊吹」はなにかを考えるように漸くやや左に傾いで、右舷の赤い船底をちらりちらり露わにして、急にぐるりと艦体を回らしはじめた。
 「艦首回った、「満月」艦尾距離千三百。」従羅針儀を屈んで押さえていた弓山中尉が僚艦との距離方向を確認する。ついで弓山は体を起こして双眼鏡を構え、他の艦艇を見守った。おりしも雨雲が通過中で艦橋の窓にはぷつぷつと雨だれが、くっついている。その向こうには、大きなうねりが広がって、その波間波間に小さな随伴駆逐艦が漂っているように見え隠れしている。
 全艦艇は一斉に右回転に舳先を巡らした。風速計は相変わらず9ノットを指し示し、その募る強風に煽られた波は、いよいよ高さ5m以上になっている。これはなかなかしんどい艦隊運動と言えよう。こと駆逐艦たちは例外なく、北西からの風をまともに受けて、次々と爆発するような白い飛沫を吹き上げながら大波浪の懐で大きく左右に傾ぎ苦しみあえぐように進路変更していたが、やがてまた元のようにうねりに乗り上げながら進み始めた。にも関わらず「伊吹」はといえば、荒天下の変針だからと言って、さほど艦体を倒したり動揺するようなこともなく平然と進んで行く。大型の四脚檣中段に設けられた信号ヤードに掲げられたたくさんのカラフルな旗旒がはち切れんばかりにふっくらと翻って、まるでそれは連凧のように見えた。その「伊吹」の航跡を辿って続く「鞍馬」「富士」も斜めの梯形に変針している。暗い凄惨な荒波の中で、彼女たちの艦首先端にある金色の菊花紋章が鈍く光り、更にその背後に不気味な砲口を開いて重高角砲2門が宙を睨みんで威圧感がたっぷりである。それでも敵意丸出しの吹き上がる白波は、それを多い隠さんとばかりに次々と覆い被さってさしもの巨大巡洋艦も姿を見えなくなる時もあったが、やがて何事もなかったように彼女たちは、山波の中から現れるのであった。
 遠く今まで見えていた水平線の光芒は既に消えさり、全天は黒く分厚い雲で覆われて昼なお暗しと言った有様。見張所のブルワークで見張員が襟を立てて寒さに肩をすくめつつ、双眼鏡を睨んでいる。森下艦長はトレードマークの腕まくりを下げて袖のボタンをきちんとかけ直した。さすがに寒さも身に浸みてきて袖を直すとちょっと背筋を改めて伸ばして、襟を正す。そしてズボンのポケットから銀製懐中時計をひっぱりだした。針はこの空の暗さだというのにお昼の十二時五十分を指していた。銀色に輝く精工舎のかちっとしたそれには恩賜の印が掘ってあって、昨年レイテ沖海戦での大和の無事帰投を果たしたことと敵空母を撃沈した事への陛下からの頂き物である。
 幸い潜水艦は心配無いだろう。この荒れでは彼らがよほどの冒険者でなければ、雷撃をすることは難しい。しかし航空機はまだ心配である。次第に風のピークは過ぎつつあるようで、北上することで艦隊は低気圧の影響の弱い方へと進んでいるようである。
「艦長。機関長が速力について缶圧上げるのに五分は要らないが四分は必要だということをようくお伝えしろとのことで。」
 副長が何かを予感しているのだろう、艦内電話の受話器を降ろしつつ、振り返って森下に報告してきた。
 森下はぷはりと吹き出すように笑ってそちらを向きもせず、煙草の煙を吐いた。窓の向こうを見ているかのような森下の肩が震えている。
「はは、先読み早いな。あー、これから檜山くんには苦労を掛けるかもしれん。」
 それを聞いて渡邉副長もまたにやりと含み笑いしたが、それを覆い隠すように双眼鏡を構えて前方を凝視した。
「あー、航海長。どうかな。。。」
「風はもう弱まるかと想います、艦長。」
 脇田航海長は上目遣いで艦橋前面窓の上方にある速度表示器を見て「伊吹」の速度にまだ余裕があることに頼もしく想った。第七戦速二十八ノット、第八戦速三十ノット、最大戦速なら三十二ノット、公試運転での最高速力は三十三.八一ノットを叩きだしている。檜山機関長に言わせると、過負荷にすれば「伊吹」は恐らく三十五ノット以上を発揮するだろうと言うことだった。ただ機関が駆逐艦用のタービンを改良しているものなので、耐久性・持久力にやや疑問があるのは否めないから、実際の所、そう長くは過負荷状態を保つことは出来ないだろう。
 なおもくわえ煙草で艦前方をじっと眺めていた森下だったが、ひょいと脇田の顔を見ると覆って、背後の海図台へ歩き出した。渡邉中佐と脇田中佐もそれに続いた。海図台で若い士官が書き込んでいる自艦の航跡、第二艦隊の位置に青いマーカーと電探が捕捉した敵編隊の位置が赤いマーカーで刻々と記されていて、急速に接近する敵機と第二艦隊の間に「伊吹」ら第八護衛艦隊が割り込んで行くのが手に取るように判る。もちろん、敵も同様に相互関係を掌握しているに違いない。彼らは、第一波と違い、今度は第二艦隊を主目的として攻撃を企てているようにも見える。簡単に見てみればだが。。。。
「自分は戦闘を東経131度10分 北緯28度30分の海域に想定しているのですが。」
 脇田航海長は海図の上の一点を指さし示した。第二艦隊の進行方向南前面の海域である。
 その指先を数秒見てから、森下は額を右手で掻いておもむろに低い声で言い出した。
「どうだろ、この先北へ180度回頭し、第二艦隊を前面に押し出して、更に西に転針、その背後から対空弾を山越に撃つっていうのは。」
 すぐに傍らの計算尺取り上げると、それを数秒ひねって脇田は難しい顔をした。艦長は静かにしかし真剣に言っているようだ。第二艦隊を囮に使うとは。。。。それは無理だろうと言いたそうに、脇田は無精ひげの赤ら顔を上げ大きな目玉で艦長の顔をぎろりと見つめた。
「あと八分後に二−八ー〇へ向けて変針、速力三十二で急行する必要がありますが。。。。」
 艦内きっての偉丈夫、鹿児島生まれの脇田孝明は山男であり、戦争が始まる前には中国の山々を歩き回った強者である。海軍よりも陸軍に居たほうが似合いそうなので、よくそう冷やかされるが、当人は陸軍の気風が合わないと言っていた。彼にとって更に航海士は転職らしく天文学気象学にも精通し、高山気象学でも論文を発表しているくらいの風貌に似合わない博学な男であったが、無類の体力と忍耐力、そして冷静怜悧な頭脳で森下はおろか艦の全ての者の信任は、まことに厚かった。又、副長の渡邉快治の同期で親友である。スマートで伊達男の渡邉と無頼漢だが頼りがいがある脇田は、オカに上がれば綺麗どころのエスたちの羨望の眼差しをめいっぱい持って行く。
「この高波の中、その行動を取れるのは本艦と「鞍馬」「富士」のみですね。。。。」
 彼は戦闘帽のつばを右手で持つと、くしゃくしゃの前髪と共にそれを軽く持ち上げた。そして右手の腕越しに左舷の外を見やって言った。
「随伴の素晴らしき駆逐艦野郎たちを連合軍の鴉どもに晒すことになりますな。。。。そして」
 脇田はしかめ面を更にしかめた。
「本艦もアメリカ鯨の突き上げを喰らうかも知れません。」
 森下は顔を軽くほこらばせて、低く囁いた。
「あ、航海長、あれだ、そんな心配は沖野君に聞こえんようにな。」
 もっとも「満月」の勇猛・沖野は冷静な男だから、なにを云われても聴いても感情を顕にすることはないだろうが、あるいは嫌がらせにその自慢の射撃の腕前で敵機を全滅して大型対空巡の護衛など必要ないことを証明してくれるかもしれない。いや、それに付け加えておまけで鯨のすき焼きを御馳走してくれるかもしれないな。
 森下は再び懐中時計を引っ張り出した。
「時間が無いな、通信兵、暗号文用意。内容、」
 すらすらと予定されていた台詞のように森下は指示を出した。
「第八護衛艦隊司令森下発、第二艦隊司令伊藤整一殿宛。我が艦隊は貴艦隊前面に出た後一旦後退、貴艦隊北へ回り込み、背後から敵編隊を対空砲撃したし。即答願う。」
 無線封鎖など今や必要が無い。連合軍が暗号を解く間もなく戦闘が始まるであろう。今は緊密な連携を促す具体的な意思を伝える必要があった。
「大和」の伊藤長官は森下の畏友であり良き理解者であったし、「大和」艦長有賀幸作は森下の同期で親友でもあった。
天一号作戦の作戦指揮は基本的に第二艦隊司令にあったが、基本的に対空・対潜作戦立案は、「伊吹」らの強力無比な電探や水探などの情報分析に優れている第八護衛戦隊司令の森下が発言することが多く、伊藤整一少将も概ねそれにそって、作戦行動を取った。第二艦隊はまさに「御大尽」であった。
 さておき、ごく短い返信は、すぐに帰ってきた。伝令より受けた副長がケレンみ溢れさせて高らかに読み上げる。
「許可ス我進路変更ナシ 我トラアナニハイラン」
 艦橋の誰もがこの返答ににやりとした。
 が、森下艦長は硬い表情を変えず、遠く伊藤長官の姿を熱い気持ちで心の中で拝した。そして艦長席に戻り窓枠に軽く両手をかけると次の命令を指示した。
「全艦 対空戦闘準備。」
 艦橋内で復唱がこだまし、各伝声管、及び艦内スピーカーで放送されると既に戦闘配置を整えていた「伊吹」の水兵たちは無言であるが色めき立った。
「副長、各艦に電信。」
 渡邉が通信室への艦内電話を取り上げる。
「「鞍馬」「富士」は我に続け。第一八駆逐艦隊は「満月」の指揮に従い行動せよ。」
 続けて
「「鞍馬」「富士」に告ぐ。直ちに最大戦速。方位二−八ー〇。」
 艦長に続いて渡邉が伝声管に「機関最大戦速、おもかーじ。よーそろー」と告げた時、「伊吹」は軽く身震いしたように感じた。  
 
 
「伊吹君。」
 弾道管制室の暗い照明の中で今井大尉は眠るがごとく、「黒い椅子」にもたれて目を閉じている少女に声を囁きかけた。
 伊吹はうっすらと目を開いて、長い睫毛を小さくしばたいた。その黒い瞳に、相変わらず黙々と操作盤で端子を繋ぎ変えたり、計器を睨んで操作盤のダイヤルや切り換え機を操作している通信兵たちの広い背中がぼんやりと写ってくる。ダクトの低いうなり声が耳に煩わしい。
「第二波が来ましたね。戦闘準備をしましょう。」
 今井は帽子のつばを握り、気合いを入れるぞと言うようにぐっと引き下げると、かつかつと”黒い椅子”の右脇へ歩み寄り、その背後にある背丈ほどの高さで一メートル四方くらいの四角い箱のてっぺんからたくさんの電線コードや針のようなものがステーを介して垂れ下がる”銀の冠”を両手で持って正面に回った。そして、伊吹の美しい黒髪の頭上に厳かに持ってゆこうとした。
「。私。。。」
 伊吹は伏し目がちになにかを訴えかけていた。はその手を宙に留めた。
「大丈夫です。さっきは上手くやれたじゃないですか。自信を持つんです。」
「。」
 ”銀の冠”を被されつつ、
「、私はまた人を殺さなければならないのですか?私はまた人を。。。」
 伊吹はせつせつと訴えた。
「伊吹君が成すべき事は、敵を見逃すことではありません。君の成すべき事は、第二艦隊五千人と我が第八護衛戦隊四千人の命を守り、ひいては帝國一億の命と心を救うことなのです。」
 即座、今井はすっと伊吹の正面に屈んで、伊吹の顔を見据えた。そしてなにも問題がないよと言わんばかりに、にっこりと微笑んだ。
 普段の伊吹は明朗闊達、決して簡単に不平不満や不安を訴えたりするような少女ではなかった。貿易商を営む、皇族の血筋を引く裕福で高い家柄「藤原家」の令嬢であるし、さぞかし軍艦の生活には不満もあろうかと想えば、さほど上等でもない食事も、小さく硬いベッドでの寝起きも(さすがに個室ではあったが)、海水の風呂であっても、淡々と享受している。士官待遇とはいえ幽閉同然の海軍の処置についても何も言わず、逆に荒くれの水兵たちが繰り出すヘル談にも屈託無く付き合って面白おかしいその話を楽しそうに聞いていたり、ガンルームで士官と花札遊びにこうじたり(それはかなり勝負強くて手強い相手だ)、週二回ほど森下艦長の行う操艦や水雷、戦術についての講義にも参加しきちんと自分の意見も言ったりするなど(この歳で兵学校出身者と対等に勉学できるのも並大抵ではない)、艦内のだれとでもうち解けあって、それなりに軍艦の生活に馴染んでいる様子だった。体のヨイお側付きである今井は、一番身近な伊吹の担当係として彼女の品の良さ、頭脳明晰さ、志の高さにはとにかく舌を巻くばかりだ。そんな彼女が姿勢を正して悄然と長い髪を垂れ目に涙を溜めている。
「でも。個人の命と引き替えの大勢の命という天秤はイコールでは無いと思います。」
「わかります。貴方の言うことはとても大切なことです。いつもこの議論をしてきましたね。しかし。。。
『解決への道は今こそ全く明確である。光か闇か、そのどちらかを誰しも選ばねばならない。』英国のある推理小説家の言葉です。
貴方にはこの言葉の意味が分かりますね。」
 落ち着いた優しい言葉遣いで、でも真剣な強い眼差しでは伊吹の瞳を見据えた。
 は陰日向にいつもいつも伊吹の生活と心を支えてきてくれた。身の回りについては、メイドの若桜一子と八重樫ときがやってくれていたが、リベラルな気風とはいえ海軍においても、伊吹のような存在は例が無く、なにをするにも許可の居る軍隊では結局、今井の力に頼ることばかりであった。妙齢の若桜一子などに心を寄せているらしく、明治十年生まれの八重樫ときが不謹慎だと当人をたしなめることしきりであった。人なつっこい丸顔の今井は伊達男とは言い難かったが、話題が豊富で冗談も上手く、また大変紳士的な男であったし、毎日四時間に及ぶ伊吹の教育も懇切丁寧かつ明瞭な指導を行ってくれた。ただ伊吹たちは彼がどうもただの士官では無いと薄々は感じていた。実際のところが何者であるか詳しいことは、知らされて居らず、生まれも育ちも彼自身について尋ねても「そんなことは、ま、ま。」と軽くはぐらかされてしまうのであった。
「伊吹君。君がやらねば我々味方の九千人が死ぬのです。どちらを取るべきかわかりますね?
だから、今は敵のことを考えないで良いのです。繰り返すことが大変心苦しいのですが。。。
君は、御自分の御両親があの東京大空襲でどうなったのかを想いだして下さい。そして、今、貴方が愛する人たちが命の危機にさらされているのを想いだして下さい。
繰り返します、ええ、何度でも!
『ヤラネバヤラレルのです』」
 伊吹の脳裏に焼けて真っ赤に染まった大邸宅とその窓から吹き出す炎が鮮明に浮かび上がり、厳格ではあったがとても伊吹を愛してくれていた父と優しく美しい聡明な母の姿が想い出された。そして一人の青年将校の顔が浮かんだ。兄。そう、兄は第二艦隊の軽巡「矢矧」に士官として乗り組んでいる。今は、ただ一人の肉親である愛する人があそこに居る。
「でも君が、”生命に敵味方は無い、それはとても大切なものだ”と ちゃんと判っていること、それが’戦い’でお互い死んで行く兵士への一番の手向けになります。自分は君のその気持ちを良く分かります。さぁ。」
 ”銀の冠”すなわち思念波増幅装置端末を微調整して伊吹の頭に被せ終えると 今井は人なつっこい丸い優しい笑顔で静かに促した。伊吹は想った。ひょっとしたらそれは悪魔の笑顔。。。。
「だから今は今やれることをやりましょう。君はただただ、この巡洋艦「伊吹」そのものになるのです。いつも貴方はこの艦を大好きだとおっしゃって居るではありませんか。貴方の名を冠するこの類い希なる美しい軍艦。。。巡洋艦「伊吹」、まさに貴方が全帝國の愛しい人々、ひいては陛下のお命を救うためにある巡洋艦なのです。」
 伊吹はようやく顔を持ち上げて小さくうなずいた。帝國そのものや陛下うんぬんは理解しがたい部分もあったが、そう、この軍艦が好き、ここのみんなも好き。そして洋上にある全ての兵士も好き。だから守らねばならないのだ。伊吹はそう想いつつも、やはり涙がひとつぶぽろりと転げ落ちて行くのを止めることは出来なかった。

「帝國軍艦 伊 吹」プロローグ*1 - 縹渺舎彼方からの閃光*1 #1*2 - 縹渺舎