彼方からの閃光 #7

 弾道管制室では、つかぬまの休息もどこふくかぜと、今井は二波に及ぶ戦闘時の、大まかな成果を簡単に纏めた書類を小脇に抱えて、出口ハッチのクリップに手を掛けたが、出ようとするその間際にふと思いとどまったように立ち止まり、首だけ振り返って小さな声で言った。
「伊吹君、すぐに次が来ると想うが、ちょっとの間だけでも上甲板まで自分と一緒しますか?」
 伊吹は精神感応機を外し、ややしかめた顔で椅子から既に立ち上がって手を腰に当て軽く伸びをしていたが、その言葉に小躍りした。
「よろしいんですか?!」
「少なくても僕が戻るまでは。。。。金山君と板見君に任せておけば此処のことは大丈夫。」
 名前が出ると前方で操作卓についている二人の通信兵がこちらを振り返り、よっと微笑むと小さく敬礼を返してきた。
 今井も軽く敬礼を返して、ひょいと袖口を直して引き延ばしながら腕時計を眺めると、思案顔で伊吹の顔をのぞき込んだ。
「「矢矧」が、すぐ近くにいるはず。」
 伊吹は顔を紅潮させ嬉しさのあまり、今井に抱きついた。伊吹の長い黒髪は薄暗い室内の微弱な光につやりとさせて宙に舞い、すると今井の鼻を微かながらも野の花のような香りがくすぐった。
「大尉、ありがとうございます!」
「い、いや、まま、落ち着いて。」
慌てて押し戻すように今井は伊吹の柔らかな二の腕を両手で内側から支えて押し戻し、そしてその手を滑らせてセーラー服の襟を綺麗に整えてやった。
「急ごう。上へ」
 今井はバッと体を翻しすとハッチから飛び出て、潮の香りがする通路を伊吹を省みずに小走りで駆けていった。伊吹もまたそれを追った。
 狭い通路を随分と小走りで抜け、右舷中甲板から上甲板、そしてシェルター甲板と出て行くのは、なかなか骨が折れたが時間にすれば数分のことだった。側面ドアハッチを開くとシェルター甲板の露天甲板に出て、冷たくて密度が高い強い風がせっかく直して貰ったセーラー襟とスカーフはおろか、スカートをくしゃくしゃに巻き上げた。それを吃驚したように押さえにかかる少女の姿を今井は困惑しかめ面になって、それを努めて見ないように小脇の書類を顔にかざしながら、手近な高射装置を指さして
「徳村さんって兵曹がいる。話をしてみてくれたまえ。そこで五分まで居て良いから。その後は戻ってくれ。」
と時折飛沫が混じる風切る音の中で大きな声で伊吹に言い残し、ぱっと自分はそのまま艦橋基部のハッチへと駆け込んでいった。
 伊吹は制服のばたつきと長い髪の毛が風の形に吹き流されるのを必死に押さえつつ、教えられた一番高角砲射撃装置の元へ駆けて行き、タラップをよじ登ると三メートルほどの高さの高射装置の円筒の壁に張り付いて、ハッチを拳で軽く叩いた。
「おねがいします!」
すぐにハッチが開いて中から若い水兵が顔を出し怒鳴ってきた。
「だれだっ!」
しかし、そこに居る、それなりにきりりと敬礼している者がどうにもその場には似つかわしくない華奢な少女であることに気づいて、ちょっといぶかしんだ後、吃驚したような顔をしてすぐ、慌てて敬礼を返してきた。
「藤原准尉!あ、御無礼を申し訳ありません!」
「いえ、こんな時に御免なさい。今井大尉に教えられて参りましたが、徳村兵曹はいらっしゃいますか?」
「もちろんです。どうぞ、中へ。」
 水兵は丁寧に手をさしのべると、伊吹はその手に誘われて高射装置室内へ入った。背後で水兵がハッチは閉じるとようやく寒風は遮られ少しだけ暖かさを感じた。小さなタラップの上で一段高くなっている高射機の床は、天窓が開いているので明るかった。五人の水兵がそれぞれに配置に付いていて、天窓に一人双眼鏡を眺めている男が居た。
「伍長兵曹。藤原伊吹准尉がいらっしゃいました。」
するとその天窓の男がこちらを見下ろして、伊吹をじろりとにらんだ。が、すぐに理解したように、にこりと厳しい顔を崩して言った。
「おー、藤原准尉。ようこそ!ま、ま、むさいところだが上がって上がって。」
まるで自分の家の座敷にでも上げるみたいに気さくな語りかけに、胸を熱くしながら伊吹はタラップのステップを踏み、徳村の足下へ出ていった。
「「矢矧」が見えると伺ってきました。」
「ああ、よく見えます。第二艦隊を本艦は先ほど追い抜き、南東へ転舵しました。これでご覧なさい。」
伍長は、自分の双眼鏡を差し出して、伊吹にその首掛けひもを掛け直してやり、自分の今居た場所を彼女に明け渡した。
伊吹が天窓から首を出して裸眼で眺めると、ずらりと並んだ十サンチ高角砲群の向こう艦尾方向の先に白い航跡がうねり盛り上がり、そしてそのすぐ近くに黒々とした山のように見える軍艦が見えた。「大和」だ。そしてそれに比してあまりに小さな細い艦影があちこちと見えていて、それが随伴の駆逐艦がであることはすぐわかった。彼女たちはうねりに見え隠れして、一定の速度で流れて行くように見える。そしてその先頭にスマートで形の良いやや大型の軍艦が菊の紋章を光らせて近づいてきた。見まちがえる事は無い、軽巡洋艦「矢矧」だ。前部の背負い式に配置された一五サンチ連装砲塔がなかなか勇ましかった。
「第二艦隊が第一警戒序列に変換しているのでしょう。」
伍長は伊吹の背後から天窓に太い両腕を拡げて、少女が万が一ふいに姿勢を崩すのに備えている。
その「矢矧」を双眼鏡で見た。艦首から艦橋へ食い入るように見る。
「矢矧」はどんどんとすぐに双眼鏡の中で大きくなり、それと共に伊吹は体をひねって真横に来るまで双眼鏡を回していった。
重い双眼鏡を支えて、肘も痛くなってきたが我慢してなお眺めていると艦橋の見張所に、一人の第二種正装のりりしい青年が現れた。
「お兄様っ!」
伊吹は軽く叫んだ。
「あ、お兄様が「矢矧」乗り組でしたか。」
伍長は深く感心したように言った。
「ええ、航海士中尉です。」
伊吹は目頭に涙が滲むのを止められなかった。愛しい肉親は、敬愛していた両親が死んだ今、いま双眼鏡の小さな視野の中で生き生きと働いていた紅顔の美男子しかいない。あの兄は、伊吹と二人しかいない藤原家の生き残りなのだ。
「征志お兄様。」
颯爽と走り去る軽巡「矢矧」は波切り良さを見せつけて美しい艦首波を上げて時化の洋上を疾駆し、そして速やかに「伊吹」の前方へ去って行くと、やがてやや右舷方向へ舵を切って、白いウェーキの優雅なカーブを残して遙か彼方へと高速で離れていった。
 伊吹は口をぎゅっとしぼり、目を細めて「矢矧」の艦尾を見つめていたが、もはや時間がないと悟ると双眼鏡を徳村伍長へ丁寧に返し、その場の水兵たちにも深いお辞儀を付けて御礼を伝え、高射装置の側面ハッチから出るときには、きりりと敬礼をして出て行った。露天甲板に出たとたん、冷たい潮風とそれに混じる煙突から放つ輻射に温められたなにか生ぬるい空気が、伊吹の白い頬を叩いた。伊吹はちょっとだけ洋上の「大和」の姿を見やると、風に暴れて翻る長い髪が顔にかかるのを振り払い、きびすを返して艦内へのタラップを降りていった。再び弾道管制所まで戻るのに今度は五分はかからなかった。

その頃、羅針艦橋では第二波の雷撃機の執念の一弾を交わして二分ほど経過してから「第二艦隊大和より入電。”我が方の損害無し”以上。」と電信が入っていた。「伊吹」たちの熾烈な迎撃の間に第二艦隊はいくらか西へ回頭して、戦場から離脱していた。「伊吹」もまた、「”我らも又損害軽微なり。作戦続行中。”」と返信し、次いで森下は無線電話で第二艦隊司令部へ簡単な戦闘結果と今後の進路についての提案を行った。
 沖縄までは現在速力二二ノットならあと五時間もあれば到達できる。燃料消費もあるので、無駄に大きな艦隊運動を避けて、これから先は我ら第八護衛戦隊が露払いをしてゆきたい。
伊藤長官も異論は唱えなかった。制空権の無い戦艦にはどんなにあがいても航空機に対抗するのは難しい。やはり、ここは「伊吹」ほかの対空戦闘に特化した艦隊があくまで、主力を守り抜くという戦法が妥当であろう。例え肉を切らせて骨を切るようなことになっても、「大和」は沖縄へ突入させなければならない。
「前方から発光信号。」
再び見張員が大声で叫んだ。
「「満月」です!第十八駆逐隊です。」
福井少尉が発光信号を声高らかに読み上げる。
「”我方、潜水艦三隻撃沈セリ”」
こめかみを右手で掻いて、渡邉は苦笑した。
「ほほう、さすが沖野だねぇ。手みやげもって現れたよ、喰えない鯨だけどな。」
森下が二人の間を割って左舷見張所に出て双眼鏡で「満月」を数秒じっと見つめた。そして双眼鏡を下げて、上半身をのけぞらせて振り返ると信号兵を呼んだ。
「発光信号用意。内容、”貴殿の活躍を多いに賞賛する。以後我に従い第一警戒序列にて対潜警戒を行え。”」
見張所の後ろ寄りにある30cm信号燈がぱたぱたとモールス信号で応答を返した。
すると再び発光信号で返答がきた。
「”了解”」 
 旗旒信号が上がり他の駆逐艦も了解旗を直ちに上げた。うねりに揉まれながらも綺麗な艦首波を描いて巡航する八隻の駆逐艦達は、「満月」「新月」を先頭に単縦陣で急速接近してきた。そのまま高速で「伊吹」達の間を反航したまま突き抜けると、先頭艦「満月」のメインヤードに、再び一条の旗旒信号があがった。するとすぐに「満月」「新月」は取り舵で転舵を開始し「伊吹」の艦尾を回り込むと素晴らしいスピードで加速して高く大きなアーチを描く艦首波を艦橋が見えなくなるくらいに吹き上げて、「伊吹」を追い抜き、その前方800メートルに占位した。数分で全駆逐艦は「伊吹」立ち三隻の対空巡洋艦を取り巻いて、その持ち場へと鮮やかに態勢を整えた。何のよどみもない見事なその艦隊運動は見る者に深い感心を与え、羅針艦橋にいる者は皆、心強く想った。これで再び潜水艦への恐怖は和らぐ。
「艦長。」
 呼ぶ声に森下が振り返ると今井大尉がハッチから汗だくの顔を出していた。
「あ、ごくろうさん。作戦室行こうか。おおい、副長、航海長、砲術長も。」
呼ばれた三人と森下。今井の五人は、ラッタルを降りて羅針艦橋の直下、操舵室背後の狭い作戦室ヘ入った。すると作戦室には、既に一人の士官が追加の椅子を持ってきて並べているところだった。その主計大尉胡桃沢は、ぞろぞろと入室してきた者に気づくとついと顔を上げた。
「戦闘大変でしたね。お疲れ様でした。すぐ従兵にお茶を入れさせます。」と手のひらを返してを”どうぞ”と着席を促した。
「俺だけミルク入りのココアに砂糖一杯入れて。」
 渡邉が慌てて注文した。
「わかりました、後の皆様は緑茶でよろしいでしょうか?はい、では。」
 胡桃沢は扉を閉めて机の上に拡げていた書類を素早く畳むと表へ出て行った。
「座り給え。」森下はどかっと椅子に座って皆に席を勧めた。
「二回の戦闘時の成果と所感です。」
 今井大尉はおもむろに小脇に抱えていた数枚の書類を差し出した。
「伊吹君、いや、藤原准尉はいまどうしている。」
 書類に目を通しながら顔を上げずに森下が尋ねた。とドアが開いて「入ります」と水兵がお盆に四つの茶碗と一個のアルマイトのカップを乗せて入室し、それを恭しくしかしきびきびと配膳していった後、再び敬礼して表へ出て行った。
「一波でやや気持ちの動揺を見ましたが、先ほどの二波戦闘では全く平常でありました。まだまだ戦闘は続きますから、先ほど軽く息抜きをするように指示しました。」
「今本艦はもとより艦隊全艦が彼女を頼りにしている。もちろん彼女が酷い精神的負担を負わないように配慮はしかるべきだ。適度に頼む。」
「わかりました、艦長。」
次いで森下は川村砲術長の顔を見た。
「先ほどの戦闘で敵編隊がとった行動をどう思う。」
「分散しての敵の行動は意外な処も多々ありましたね。もう私なりに戦術を練っています。低空で進入する編隊を叩くのには、初弾はもう少し早めのタイミングで起爆して敵の前方を焼夷弾流で塞ぎ、前方を遮断します。各艦におけるまた基本三回の斉射を四回に増やします。」
「伊吹君の負担が増えるが。」
艦長はこめかみに小じわを寄せ顔をしかめた。言われた川村も口髭に手をやり困惑顔で目を中に漂わせた。しかし今井大尉が、さっとそれに答えた。
「藤原准尉は大丈夫でしょう。彼女が意識遷移した事象のペリフェラル内部では時間系を独自に持ちます。我々が一瞬と感じることを彼女は数分の感覚で執行することが出来るのです。任せてあげて下さい。」
 やや間をおいて、組み手で机の上でそれを揉んでいた森下は深くうなずくように頭を垂れ、すぐに厳しい眼差しを神妙な顔つきの今井に向けた。
「大尉がそう言うなら任せよう。あと、もうひとつ副長が発令所の高柳君からの要望として、君の管制所へ人員を三名増員して欲しいというものがあるが、今井君、どうなのかな。私としては、実情に鑑みて悪いアイデアとは想わんのだが。」
「あまり心配の必要はないと想っていますが、艦長が必要だと判断されるなら、予備要員を置くのは有効だとは想います。」
そういう今井の顔つき言い方は、あまり気が乗らない感じではあった。
「では、副長。要員の手配を頼む。後は任せる。さて。先ほどの二波攻撃は、我々のウィークポイントも敵に知らせている。」
今井から受け取った記録を見ながら森下はそういって手元のお茶をずずっとすすった。爽やかな芳香がなんとも心安らぐ。
「とはいえ二回の迎撃で敵艦載機は恐らく半減しているはずだ。これは、敵により慎重な攻撃方法を促すことになるだろう。我々の旅はもう半日くらいのものだ。どの程度のことを仕掛けてくるかわからないが、艦載機だけではなく潜水艦、あるいは大型の水上艦艇による同時攻撃は予想出来る。航海長、われわれの進路についてなにかないか?」
脇田が即答した。今や旗艦航海長たる脇田は戦隊の水先案内人としても役割を果たさねばならない立場でもあった。
「第二艦隊というか、戦艦大和をとにかく無傷で沖縄本島へ突撃させねばならない以上、ここは先頭に立って敵航空戦力と潜水艦戦力の漸減を図るべきです。ただ情報に寄れば敵戦艦部隊も機動部隊に後続しているとのこと、これに対しては我々がやれることはほとんどありません。せいぜい、駆逐艦部隊を第二艦隊へ助太刀として付随させるくらいでしょう。方向性としては、とにもかくにも敵機動部隊へ肉薄し、航空戦力を吐き出させて殲滅することが目下の我々がとるべき戦術かと想います。先ほど第二艦隊へ諮ったように、沖縄へは直進航路をとり、”餌”になって懐に飛び込んでしまうしか方法はないと想われます。」
「水上艦艇は出てくれば、大和と水雷戦隊が土俵にのる。」
森下は居並ぶ全員の顔をぐるっと見直した。
「大和が敵戦艦と交戦するのは避けられない。しかし、その主砲はアウトレンジで敵戦艦と交戦可能だ。問題は、巡洋艦以下の無数の艦艇である。これは、駆逐艦だけではなく、我々もなんとかせなばならない。主砲は対空弾ではあるが、いくらかは助けになるだろう。副砲は十サンチだが速射は負けない。中小型艦には十分な打撃力がある。」
ここで森下は言葉を区切って、深く瞑想するがごとく顔を上げたまま目をつぶった。そして、数秒、目をかっと見開いてこう言った。
「大和の露払いということも含めて、我々第八護衛戦隊も敵艦艇に遭遇すれば突撃をしたい。」
その場の全員が体を硬直させているかのように微動だにしなかった。
「しかし。」
その時部屋の温度はまるで炎の中のように熱くなり、そのゆらぎのようなものでみなぎった。森下は決然と言った。
「俺は死ぬ気は無い。いいかな。
みんな、紙一重で生き残ろう。絶対に生き残るんだ。
生き残ることを最大に目標として、敵に最後まで食いつこう。以上だ、解散。」
ばっと全員が立ち上がって艦長に敬礼した。森下もゆっくりと立ち上がり、一人一人の顔を目を見つめながら敬礼を返した。
そして、まだ冷めぬ茶碗から湯気が立ち上るのを残して、作戦室から出て行った。
最後に、渡邉副長が外に出ると胡桃沢大尉が様子を窺っていたのだろう、ドアの前にやってくる。なにか表情に冷たい微笑みを含んでいる。
「大尉、ココアなかなか美味しかった。」
渡邉は歩き去りざまに軽く敬礼をした。
「ありがとうございます。ところでいよいよ皆さん突撃の心準備ですか?」
軽く頭だけでお辞儀を胡桃沢は返した。その皮肉っぽい言い方は悪気は感じられないもののどこか辛辣な感じだった。
「そうだなぁ、強いて言うと、特攻の本領発揮という感じかなぁ。」
渡邉はややぼんやりしたような気の抜けた返事をして、足早にラッタルを駆け上がっていった。
胡桃沢はその姿を黙って見送ると、
「晴天に上りて明月をとらんと欲し、剣を抜きて水を裁てば水は更に流る。」
と一人つぶやいた。その後ろをいぶかしげに見やりながら従兵が作戦室へ入り、すぐにがちゃがちゃとお椀を片付けて部屋から出て来たときには大尉の姿は既に無かった。