〜彼方からの閃光〜#20

 間髪を置かず今度は右舷で二度三度と爆発が起こり<鞍馬>はたちまち両舷を包み込む炎で一瞬にして輝く火達磨のようになった。瞬く間に周辺に火炎が燃え広がってゆくのは、両舷の重油燃料庫から漏れた燃料が海面に浮かび上がり引火したのだろう。まさに炎の海から再び漆黒のシルエットを現した<鞍馬>は爆発エネルギーでうねる波を突き破って激しくピッチングを繰り返してまるで怒り猛っているる修羅に見えた。
「<鞍馬>から電信!”触雷セリ。我各部浸水。”」
「時限機雷だ。一隻をやり過ごし後続の艦船で反応し爆発するタイプだ。」
渡邉はダンッとブルワークの横縁に拳を打ちつけた。駆逐艦に事前に掃海させるか、あるいは艦速力は低いからパラヴェーンを展開するべきだったと彼は胸中、焼けるような後悔に襲われた。
「ここは機雷原なのか?」
「分かりません、しかしそう考える方が良いでしょう。恐らく我々の先回りに航空機でばらまいたのでしょう。」
そう言って渡邉は臍を咬んだ。参謀長は暗い顔をしてなにも言わない。その手が震えている。
「各艦に通達。”機雷ニ警戒セヨ”」
渡邉はそう命令すると一呼吸置いて、反対の左舷見張所に出て<氷川丸>を見た。特に何事もないように彼女はしずしずと進んでいる。
<鞍馬>は機雷とおぼしき大きな爆発は止んだものの、恐らく缶室に浸水したのだろう2回ほど鈍い爆発音を起こすとやがて行き足がみるみる落ちてゆくように見えた。船の傾きも徐々に右に傾きつつある。と主砲が旋回し左舷指向して正横で静止した。傾斜が酷くなり砲塔旋回が不可能にならぬうちに重量を少しでも反対にしておこうという苦肉の策だろう。
「<満月>より入電。”敵潜8隻を確認。撃沈三”以上」
「返信せよ、”撃沈ヲ祝ウ 深追イセズ宜シク元配置戻レ”以上」
 ”了解”の信号があった後、五分ほど遅れて洋上で走り回る三隻の駆逐艦は戦隊へ戻ってきた。勇躍波頭を立てて帰ってきた彼女たちだが、しかしその後甲板の爆雷架、梯子上の桁に爆雷そのものは既に投下しつくしていた。
「<鞍馬>より入電。”傾斜8度 左舷缶室浸水 火災発生 速力低下 アトカラツイテユク”以上。」
「返信せよ。”モハヤ付イテ来ル必要ナシ 直チニ回頭シ艦ノ保全ヲ図レ”以上。あとそれから”駆逐艦<初桜>宛タダチニ<鞍馬>護衛スベシ。”以上。」
了解の信号を返信してくると<鞍馬>はゆっくりと自ら速力を下げて、艦隊各艦に抜かれるままになった。暗闇の中、そこだけ鈍く燃える<鞍馬>を眺めつつ、各艦は静かにやり過ごす。左翼最後尾の配置だった<初桜>が<鞍馬>へゆっくりと近づいて心配そうに周囲を回り始めた。触雷してまだ一五分ほどだろうか。既に<鞍馬>は停止してしまった。
 手痛い損失だった。これで<富士>に続いて第八護衛戦隊の主力である大型対空巡洋艦は<伊吹>一隻のみとなったのだ。その<伊吹>も自慢の高速力は望み無く、主砲は程なく砲身命数が来るころであったし、副砲の高角砲は三割が使用不可能になっている。比較的無傷にここまで来た<鞍馬>があっさりと機雷でやられたのは、非常に不幸なことであった。
 渡邉の思いを打ち破って、再び艦内電話が鳴り慶賀野が受け取るや否や絶叫した。
「水測室よりっ!<氷川丸>右舷 魚雷スクリュー音 感 12以上 方位140距離6200!。」
「随伴駆逐艦は何をやっているんだ!あいつらの水測員の耳は飾り物かっ!おまえら遊んでるんじゃないっ!」
福井がところかわまず珍しく怒りをあらわに海上へ怒鳴った。
「藤原准尉!なんとかできないか!」
渡邉が振り返って希望にすがるように伊吹を見た。しかし、体を硬直させて悲愴な顔で伊吹はかぶりをふった。
「渡邉副長、申し訳ありません。私の思念波は何も介さない場合、因果関係が無い空間には無力なのです。私は本艦に関わる攻撃しか認識できません。弾道管制所に行けば、精神感応増幅装置を装着すれば何とかなるのですが。」
 渡邉は大きく落胆した。そんな時間的余裕は無かった。ふと気がつく伊吹の背後、艦橋内でじっと今井大尉が目を閉じて小さく首を振っている。絶望が襲い体が震えてくる。<氷川丸>に雷撃が及ぶのにもうあと1分。万事休すだった。航空機攻撃が無効な相手を冷静に分析した攻撃だった。敵潜水艦群を率いる司令官は用意周到且つ稀に見る策略家で果敢な勇者だった。我々を待ち伏せし、まさに攻撃を仕掛けんとするに理想的な時間を使い、先回りをし、自ら敵艦隊の懐に飛び込む。十分な数の艦船を使って目的とする艦船だけをピンポイントで屠る。完璧な攻撃にただ<伊吹>の奇蹟という例外を作ったものの、もはや勝負は付いていた。
「だめか。」
背後でだれしもが苦悶の表情と次に来るであろう美しく灯火を掲げた白い病院船の恐ろしい末路を想像した。
「副長っ!!あれはっ!!」
 叫んだ見張員が指差すほうを見ると先ほど戻ってきた駆逐艦<満月>が既に本艦艦尾を横切って、猛烈な速力で走ってゆくのだった。その艦橋トップで一人が信号灯を<氷川丸>に向けて何かを訴え続けているのが、<氷川丸>の明るさにはっきりとしたシルエットとなって見えた。何をしようというのか?全長132m排水量3500tの決して小さくない大型の駆逐艦<満月>。彼女のタイプシップ秋月型を連合軍はテルヅキ型と呼んで、よく軽巡洋艦と誤認していた。彼女の最高速力は33ノットではあるが、今や暗闇にも濛々と見える黒煙を吐きながら、タービンを過負荷にして<満月>は40ノットいやそれ以上はあろうかと言う猛烈な速力で艦尾を海に落ち込ませ、鋭いステムで闇の蒼波を見事に切り裂いて<氷川丸>の全面に衝突するほどに接近してゆく。いや、間違いなく<氷川丸>の硬い船首は<満月>を切り裂くだろう。それと見た<氷川丸>が取舵をとってやり過ごそうとしているのか、若干左舷に傾いている様子だったが1万トンを超える彼女が駆逐艦のように小回りが利くはずもなくこれからの数十秒にまるでそれは何も起こせない動作でしかない。そして何のためらいも無く<満月>は<氷川丸>の左舷へ踊り出て<氷川丸>のステムが美しい<満月>の艦尾数メートルを振り上げた斧のように切り裂いて、<満月>は横倒しになりしかし慣性運動のままに切り裂かれた艦尾を残して<氷川丸>左舷にぴたりとくっついた、その途端、目にも眩く猛烈な稲光が起こり少なくても6つ以上の爆発が次々に<満月>の横腹を切り裂き空中はるか高く50メートルはあるかと言う火炎を吹き上げた。その大音響と強烈な爆風は艦隊各艦へも吹き荒れて唖然と見る者にまるでそれは夢幻絵巻では無く現実に起こっていることを荒々しく教えるのだった。
「<新月><椛><楮>に伝達せよ!”即座ニ敵潜ヲ捜索 発見次第掃討セヨ”」
 渡邉は我に帰っていきなり叫んだ。いまさら何をしても遅いとは彼もわかってはいるが、<満月>の壮絶な最後を見て復讐の念を押しとどめられるものではなかった。
 驚くべき行動を取った<満月>は粉砕されてすぐに紅蓮の炎の中に消えていった。切断された艦尾は<氷川丸>の右舷をしばらく漂っていたがこれもやがて波間へと消えていった。白い病院船はと言えば、特に損傷も無く速力を緩めたものの無情にも航進をやめなかった。その舷側にたくさんの人間が集まって炎の海に向かって様々に蠢いている。<伊吹>からはやがて<氷川丸>の右舷に隠れて燃える海上は見えなくり、次にそれが見えたとき小さなめらめらと小さな青い炎が幽遠とゆらめいているだけだった。渡邉は<満月>の沖野艦長を思い出した。直接関わることはなかったが、その優秀さと勇猛さを何度も伝説で聞いている。この突撃行為は潜水艦索敵への失態への弁済であり、彼の心の刃だった。敵味方に関わらず痛烈な心象を残して守るべきものへの責任を貫き、彼は手兵を道連れに洋上に散華したのだ。
「<氷川丸>より電信”救助ノヨウアリ”以上」
「返信せよ。”貴船ハ続航ノコト 被害状況ヲシラセ”」
渡邉は額に右手をやってブルワークに開いた片手を打ちつけた。
「<氷川丸>より電信”続航了解 我被害軽重 航海支障ナシ”」
駆逐艦<柳>に<満月>救助を指示しろ。」
珍しく命令文にせずにそう電信を指示すると、無言で渡邉はたった今一隻の駆逐艦が燃えて消えた海上を一瞥してから、その視線の先で、遥か遠くに消えつつある僚艦の姿をぼんやりと見つめた。
「あの艦を救えればよいのに。」
伊吹が悲しそうに渡邉の横で小さく嘆いた。自らが<伊吹>となって一心同体となる彼女にはほとんど同じ姿をした、かの巡洋艦の姿がまるで自らの傷つく姿に思えたのだろう。震える肩で両手をブルワークの縁に掛けて拳を握りしめた彼女を見て渡邉は無言で伊吹の体を引き寄せて軽く抱きしめた。
「今更、君がなにかできるものではない。先ほどだって自分たちもああなる寸前だったのを君が救った。大丈夫、爆発こそ派手だが磁気反応で比較的離れて爆発しているものがほとんどだ。あの様子だと機雷による直接損傷被害は数発。ただ左舷缶室には浸水が出たんだろう。ボイラーが蒸気爆発している。恐らく沈むことはないが、残念だが<鞍馬>はここまでかもしれない。そして<満月>にも感謝しよう。奇蹟の全てが一人の超能力者だけで生めるものではないんだ。<満月>はそれを教えてくれた。」
言い終えると渡邉は伊吹の体をゆっくり優しく解き放した。彼女は振り返って渡邉の顔を見た。元気よく話をする割には、遠く水平線をやぶにらみするその顔はやつれているようにも見えた。とその視線を落として彼は伊吹の顔を見た。
「どうだろう、准尉、本艦の周囲に機雷があるかどうか分かるかな。」
伊吹はそう聞かれたので、すぐ目を閉じて周囲に思念波を送ってみたが、なにかを感じ取ることはなかった。
「なにも感じません。少なくても自分を危機に陥れるようなものを感じません。」
「それは僥倖。ありがとう。出来ればだが、君の”能力”を使って、このまま監視を頼めるだろうか。」
ちょっと小首をかしげて瞳を洋上に落とし、伊吹は考え込んだようすだが、まもなく二つ返事を返した。
「みんなのお役に立つなら。」
にこりと微笑んで渡邉は伊吹の肩を軽くポンと叩いた。
「ありがとう准尉。では四月とはいえ高速で走る海上。その制服姿だと未だ寒いからコートを取ってきたまえ。そうそう、軍医長にはこちらの手伝いをしてもらうからと連絡しておくよ。一言二言小言何か言われそうだなぁ。」
 彼は苦笑し体をくるりと回して艦橋内へ入った。伊吹は言われたとおり、艦橋を降りて直ぐに中甲板の自室へ行って紺色のコートを羽織り戻ってきた。それを見て慶賀野が自分の双眼鏡を彼女に手渡した。伊吹は感謝しつつそれを受け取った時、治療所においてきた焼けこげた徳村曹長の双眼鏡を思い出した。そしてそのまま右舷見張所でじっと洋上を見つめ、慣れない監視を手伝い始めた。思念波で何かを感じるにしてもイメージがあるのと無いのとは大きな違いがある。海を真剣に眺めることにより彼女は少なくても<伊吹>の周囲は何か異物を感じることが出来た。
 しかし、それでも艦隊は南下を続けねばならなかった。渡邉は後手後手に回ったことを反省し機雷対策をとることにし、艦隊速力は一八ノットでさほど高速でもないので、念のため予め駆逐艦を前方に矢形に配してパラヴェーン(掃海具)を引かせることにした。パラヴェーンは艦の艦首から海中のステム材にワイヤーを2本垂らしそれの先端に小型のグライダーのような形のものをそれぞれに取り付けて海中に流してやると一定速度以上あれば海中でそれが浮かび上がりそのグライダーと艦首が逆Vの字にワイヤーを展開するところで浮遊機雷の海底固定ワイヤーを切り落とす仕組みになっている。普段は海中に浮かんでいる機雷はこの掃海具によってぷっかりと洋上へ浮かび上がるから、それを銃撃などで爆破するのだ。夜にこれをやるのは例が無かったが、<氷川丸>保護のためにはあらゆる手立てを取る必要があった。
 一番最後に雷撃していた潜水艦たちを追った駆逐艦<新月><椛><楮>から目ぼしい戦果報告は得られなかった。追跡を指示したタイミングが遅かった。渡邉には深い悔恨が残った。
 更には夜の闇と潜水艦、機雷、あるいは万が一の航空機攻撃を思うと監視は怠れるものではなく、激務の延長戦はなおも続けられた。
 艦隊はその後無線封鎖したまま、静かに沖永良部島西30km沖合を再び通過、完全に夜の闇に支配された洋上を<氷川丸>以外は無灯火のまま進む。一隻だけまるでお祭りのように煌々と明るく輝きながら進む<氷川丸>はせっかく、灯火管制している艦隊各艦をくっきりと闇の上に照らし、あるいは遠目にシルエットとして映し出してしまっていたが、渡邉は意に返さなかった。敵のレーダーは彼らを捉えて居るであろうし、先ほどの掃討戦で撃ち漏らした潜水艦がずっと監視して我々の周りで盛んに交信し合っている以上、なにをしても丸裸に違いがなかったのだ。ただ先ほどの魚雷攻撃の失敗から彼らは積極的攻撃を避けているのかもしれないと想われた。
 渡邉にもそろそろ疲労が蓄積していた。彼は数分だけ軽く休むことにして、操舵室横の予備倉庫へ降りた。そこは、長椅子が置かれていて仮眠室になっている。入る前に操舵室を覗くと真っ暗なその中でほのかに計器類が光りその明かりで秋山操舵長が仁王立ちでどっちりと構え舵輪を握っているのが影法師のようにゆらゆらと見えたので、ご苦労様と一声掛けた。操舵長は呉出港以来、この作戦に命を掛けると宣言して誰にも任せずに用便以外ずっとそこで操舵を行っているのだ。
「すまないが、自分はちょっと休憩させてもらうよ。」
「任せてください。副長もお疲れでしょう。これから艦長の分もやらねば成らんことだし、今のうちどうぞ。」
 秋山は微笑んで舵輪から手を離さずに首で顎をしゃくり倉庫へと促した。
 倉庫に入り、長椅子にころりと寝そべると渡邉は目を閉じて様々なことを脳内で反芻始めた。
 一番気になることはやはり<氷川丸>のことか。軍極秘電令作1091号。それは驚くべき内容であった。本当にその内容通りに本作戦が行われていることが信じられない。作戦文に目を通した渡邉も柳田もあまりの重責に息を呑んだのだ。今思えば、森下艦長はそんな重責を全く感じさせずに普段通りの行動態度だった。それもまた感服させることだ。しかし無事沖縄へ入れるのかどうか。戦力を7割失った戦隊でこの先どういう護衛戦ができるのか。今夜半に出撃すると通達された特攻機と沖縄守備兵の玉砕覚悟の総攻撃の電信。渡邉は沖縄三十二軍が籠城作戦で今まで耐えてきていると聞いている。しかし、陸軍は大本営から死ね死ねと催促されているとも噂されていた。それは実際その通りなのだろう。もちろん海上特攻の第二艦隊もそんな帝國中枢部の自滅的発想から出撃しているわけだ。しかし。ふと藤原伊吹を思い出した。彼女の”能力”がこの作戦の基礎であった。緒戦での彼女の活躍は敵の強大な航空戦力を根絶やしにすることに成功した。ただその後、よくは知らない経緯だが森下艦長の裁断で彼女は本来の任務を放棄することを認められた。この件、今井大尉に何か聞くべきかも知れないが、それは今となっては余裕が無い。あるいは発令所長の軟禁も関係しているようだ。そして何があったのか、先ほど突然彼女は戦闘に加わってきた。あの奇跡の力を今も渡邉は信じがたいのだが、現実に先ほど<伊吹>の周囲に群がる二十数本もの魚雷を逸らして海中へ送ったことは事実だった。それを目の当たりにした以上、信じるしかない。艦橋に今戻ってきた彼女を抱きしめた時の感触を思い出す。彼女はか弱い少女にしか思えない、それを確認したのだ。生身の体はまさしく唯の少女だ。しかし秘めたるその能力は今何をおいても本艦に必要な武器である。これから俺は心を鬼にして彼女と接する必要が出てくるだろう。そう、もう何時間も先の話ではないのだ。これはでも夢なのかも知れんな。
 あまりに考えが拡散してややも朦朧として来たため急に眠気が襲ってきた。そして、うとうとと始まった頃だろうか、突然ドアの外からノックする音が聞こえた。
「副長!副長!」
その声にアドレナリンが体内を駆けめぐる。頬をぱんぱんと叩きすくっと起きあがると渡邉はドアを開いた。
「どうした!?」
「参謀長が旗甲板直下のシェルター甲板で首を吊られました。」
「なんだとっ!!」
渡邉は伝令兵を突き飛ばしてドアから飛び出ていった。予備倉庫の下段はシェルター甲板である。30秒もかからずに艦橋基部の艦尾側ハッチから出たとたん、直ぐにそれと分かる物体が旗甲板の下部にあるステーに縛ったロープにだらしなくぶら下がっているのを見た。
「何という姿に。直ぐに降ろして治療所へ。」
「副長、もうダメです。体が冷たくなっています。」
渡邉は目頭が熱くなってくるのを止められなかった。既に駆けつけていた衛兵伍長が数名の水兵に遺体を丁寧に降ろすように指示した。冷たい骸となった柳田が担架に載せて運ばれてゆくのを見送ってから、彼は羅信艦橋へ疲れた体を引きづって上がっていった。その足取りはとてつもなく重かった。ようやく艦橋に入ると悄然としている渡邉に脇田が静かに声を掛けてきた。
「副長。参謀長が自殺したとか。」
「うん。」
「何でまたこの期に及んで。副長心当たりは。」
脇田はなにか感じ取っていたのだろう、尋ねてきたのに渡邉は応えずにはいられなかった。
「実は艦長室で<氷川丸>に関する電令作を二人で読んだ後からなのだが、それから急に様子がおかしくなったんだ。あの時気が付けば良かった。あの人は陸に上がって十年この方、塩っ気が抜けていたところに、今回のような特攻作戦に引っ張り出された。航海長も知っての通り今までの戦で優秀な軍人は死絶えてもう、連合艦隊には参謀役を出来る中堅人材が居ない。彼はこんな作戦に来てもお飾りにしか成らなかったのに、森下艦長が倒れてそこへもってあの電令作。その重責に思い詰めたのかと思う。戦闘中はよく手が震えていたよ。」
うーんと呻いて脇田は身を引いて体を反らし腕組みの中に顔を沈めたが、やがて眼差しを上げて渡邉のいつもらしくない煤けた顔を見返した。
「今や貴様がもう頼りだ。頑張ろう。」
脇田はそこだけ急に同期としての気持ちを込めてさっくりと話をした。そして珍しく右手拳を持ち上げてそれを握りしめた。
「おうよ!」
渡邉は脇田の拳に自分の拳を力強くしかし軽くあてがった。脇田の静かな熱情が渡邉の胸の中に熱い火を点した。まだまだだ、まだまだやれるはずだ。
 先の砲撃戦で窓ガラスを失ったため羅針艦橋の中は今は吹きさらしで肌寒かった。何度も濡れびたした上着の下は、汗で湿った下着が少し気になる。従兵に暖かいココアを言いつけて渡邉は海図台に行き、航路を確認し全体の戦況を分析しているうちに所望のココアが運ばれてきた。気の利いた従兵は艦橋内の全員にもそれを配ったので暗く沈んでいた艦橋は一斉に一息ついた。
 そんな中、数分軽く仮眠できたせいか、あるいは参謀長の死という冷たい現実のせいかもしれないが渡邉は再び明晰な頭脳が戻ってきていることをありがたく思った。薄暗い灯火の中、一緒に無言で海図を見つめる脇田がやおら福井少尉を呼び、天測を行うように指示した。
 見張所に出た福井は六分儀を使って天測を始めた。太古の昔より昼間は太陽で夜になれば天井に輝く星々を観測することで自艦の位置は求められるのだ。綺麗に磨かれた真鍮製の六分儀を鮮やかな手つきで操作し、福井は観測結果を報告する。それは恐ろしく早かった。そのまま海図台で慶賀野たち航海科士官が記入する。彼は兵学校での天測競技で首席をとる名手だった。あまりに鮮やかでスマートな所作に数メートル離れて海上監視していた伊吹は目を丸くしてそれを見つめてしまい、監視を忘れてしまった。天測はもちろん何度も経験しているが、福井少尉のそれは初めて見たのだ。福井は作業を終えると、ちらりと伊吹の顔を見た。にやっとにやけて福井は感心している伊吹に舌をぺろりと出して見せた。ちょっと顔を赤らめて伊吹は再び<氷川丸>の明かりに照らし出される妙に薄明るい洋上へ双眼鏡を向けた。もちろん暗闇でそんな顔色の変化を見る者はいない。星がきらめきく夜の洋上は大気が冷ややかだった。そしてうねりこそやや高いが妙に澄んで静かな洋上は、かえって不気味に見える。
 戦闘開始から初めて久方ぶりの船鐘が三回響いた。三点鐘だ。今までの戦闘が嘘のように航海は何事も無く進んでいた。航海は順調に往けば今夜半前に沖縄本島宣野湾沖に達する見込みと考えられた。鐘の音は疲れた乗組員たちに船乗りであることを思い出させて、心の張りを取り戻す「よすが」となった。
 護衛駆逐艦からはまるで<鞍馬><満月>を失った時の失態を反省するかのように逐一電探と水中測信儀の索敵結果を報告してくる。しかしその報告は潜水艦が追跡していることを訴えるだけで敵味方なんら互いに積極性を持つための材料にはならなかった。戦隊は対潜兵器の不足を感じているし、あくまで想像だが敵潜は先ほどの雷撃で魚雷を打ち果たしていたのだろう。彼らはただ艦隊を遠く離れて監視しているだけだった。
 敵艦隊は<伊吹>への必殺必中の雷撃がすべて不発だったことを一体どう分析しているのか。おそらく<伊吹>に得体の知れない力を感じているだろう。船乗りはオカルトチックな物語を否定しない生き物だ。そしてそういう恐ろしげな奇妙な存在を決して不用意に近づいたり触れたりすることは無い。畏敬の念を持ってただ現実的にそれを認識して受け入れる。

 超能力のような話を否定する向きには、あるいはそういった不可思議な現象を純粋に信じるというような船乗りの心情を受け入れがたいものと感じるかもしれないが、帆船時代からセントエルモの火、サルガッソー海の遭難などはおろか、近代においても船乗りの超能力的な話は数多い。船乗りという者は、人間としての存在と厳しくも優しい自然、そしてそれらを超越する超自然な運命を漫然と自らに取り込んだ者のであることは、主張してもまずくはないかと思う。
 例を挙げれば1936年ころの話として貨物船コスロウ号船長の予知超能力の話がある。彼は霧の中で(レーダーなど無いころだ)自船が危険な位置に居ることを察して直ちに推進器をストップし、やがて目の前を大型貨物船が通り過ぎて事なきを得た。ただここで興味深いのは船長は6年前に遭難したトリコロール号の名を口走ったことでそれはまるで幽霊船のように彼らの前を通ったのだった。
 また別の日にはインド洋で天候不順な闇夜、コスロウ号は別の貨物船マイミョー号と並行して走っていたが、夜半過ぎ突然寝ていた船長が現れて座礁の危険を告げた。レッド(測深器)をおろすと水深が50mしかない。海図では200m以上あるはずだった。すなわちコスロウ号は陸に向かっていたのだ。もちろん変針しそれを回避。しかし翌朝届いたニュース電報をみると併走していたマイミョー号が座礁して、その位置はコスロウ号の変針位置から3キロメートルと離れていなかった。船長は遭難する夢を見たのだ。そして常に彼は事前に起こる危険を予知してい居るかのようだった。こうした不思議な能力を持った船乗りの話はけっこうな数で信じられている。