〜彼方からの閃光〜 #13

 硝煙の臭いが鼻を突き刺すのにもうろうとした意識から強制的に目覚めさせられ、それから何気なく持ち上がる手を見て、今井は自分の肉体がまだ存在していることに気がついた。傍らを見ると森下艦長が従羅針儀に縋りつつ丁度立ち上がりかけていた。周りでも呻きながら、あるいは口汚く敵の攻撃をののしりながら乗組員が起きあがろうとしていた。
 今井はうつぶせのまま上体を起こし、酷く打った右肩を左手で押さえ苦痛に顔を歪めた。背中に背負った防毒ガス対策用酸素供給器が恐ろしく重たく感じた。
「おい、大丈夫か?!」
「大丈夫です、艦長。艦長こそ大丈夫ですか?」
「俺は無事だ。」
漸く起きあがると今井は頭上に被り覆った網目状のアンテナの残骸に眼を疑った。アンテナ越しに見えるメインマストは、健在であったが、ヤードはへし折れ、鋼索もロープも切れちぎって風に吹かれて虚空を舞っている。
 再び艦首から耳をつんざく爆発音、ついでドーントレスが錐揉みしながら艦首前面の海上に落ちてゆく。今井がブルワークに取りすがって見ると第一砲塔前の左舷側高角砲の砲塔側壁がちぎれ飛んで内部の砲鞍だけが黒こげになってその中から濛々と煙を吐いている。高角砲の全砲員たちは憎むべき急降下爆撃機と道連れになったであろう。左舷高角砲の惨状を知ってか知らずか、右舷高角砲がそれでも激しく射撃を繰り返している。
『艦長!艦長!聞こえますか?艦長!』
力なくぶら下がった艦内電話の受話器から自分を呼ぶ声がするのを聞いて、森下はよろよろとそれを自ら取った。
「森下だ。ああ、防空指揮所は被害は無い。え?なに!ああ、うんうん、そうか。」 
 今井は周囲に声をかけて励ましながら、覆い被さったアンテナ撤去を指揮していたが、電話口の内容が只ならない様子なので森下の顔を見た。
「艦長、どうされました?」
「電探室がやられた。」
 それは、「伊吹」の五感のうち鼻がそがれるような出来事であった。
「今井大尉、測的所の中が!全滅です。」
 アンテナ撤去作業をするため、防空指揮所直上の測的所のハッチを開けた兵が叫んだ。
 今井は森下に目配せして、側壁のラッタルを駆け上がり測的所ハッチを覗き込んだ。
「川村さん!」
 下からは気がつかなかったが、27号電探の重い支持金物が方位装置の屋根を突き破り、射撃指揮装置と測距儀をへし折った上、その直下の測的所まで突き刺さって内部装置をがらくたの山にしてしまった。もはや無意味ながらくたで中にいる砲術科員たちは押しつぶされ、その極めて狭い内部は鮮血のしたたる処刑場のようになっていた。
 その中で伝声管に手をかけてぶら下がった死体が川村砲術長であることは腕の少佐の記章でそれであるとわかった。
 今井は諦めてハッチを閉じた。そして森下の方を見やると、頭を振ってなにもできないと告げた。
「敵雷撃!左舷前方より3本!」
 森下は既に変わり果てている声を振り絞って、伝声管に叫んだ。
「取り舵一杯!右舷機いっぱいっ!緊急っ」
 防空指揮所から見ると、艦首前方から迫ってくるその魚雷の航跡は妙に静かに忍び寄って来るように思えた。懸命の繰艦指示、懸命の操舵,懸命の機関操作。しかし、その三条のうち一筋の航跡が無情にも「伊吹」の右艦首、第一砲塔横に当たり直後大爆発と衝撃が走った。

15時56分。
 随伴駆逐艦のうち潜水艦掃討で離脱していた駆逐艦「柳」以下3隻が戻ってたが、森下はそれを直ちに第2艦隊へと送った。電探を失った「伊吹」は僚艦「鞍馬」からの情報で戦況を知ったが、第二艦隊は小編隊の空襲を受けつつも敵の水上艦隊に肉薄しているようだった。「大和」からの電信は滞って久しく、通信系統に問題を生じているのかもしれない。それでも「大和」の四十六サンチ砲が数隻の大型艦船を見事に撃破しているのは、電探でも消滅したそれで把握できた。
 一方、どういうわけか敵艦はその位置関係も手伝っているに違いないが、「伊吹」たち第八護衛戦隊には目もくれなかった。あるいは航空機攻撃で満足しているのかもしれない。足の速い「伊吹」型を鈍足の戦艦ではうち漏らすのは明白であり、その愚をさけたのは懸命であった。一方の潜水艦は我が方の駆逐艦によってその攻撃を妨げられていた。先ほど戻ってきた「柳」「楓」「梨」は連合軍潜水艦を一隻撃沈、沈没確認はできなかったが二隻を沈黙させるのに成功している。
 しかし今、第八護衛戦隊の主力三隻の対空巡洋艦は徐々にその戦力を減じていた。
 「富士」は左舷の高角砲群が三分の二破壊され、左舷推進器一軸と二枚の舵のうち左舷舵が壊れた。上構の指揮装置類もほぼ全滅し、各個砲側照準で対空射撃を行っている有様。「鞍馬」は三発の魚雷をすべて右舷に受け、浸水量が千tを超えて右舷傾斜が十二度ほどになったが、片舷注水で四度まで回復している。第一砲塔の天蓋に被弾使用不能、後部指揮所の被弾などこちらも満身創痍になっている。
 しかしほとんど無傷の連合軍航空機は相変わらず激しく彼女たちを屠らんと攻撃を仕掛けていた。乱戦状態はまだ続いて死闘は終わりが見えなかった。
 
 医務室はそこへ向かう通路も含めてもはや怪我人だらけだった。いや、死体置き場になりつつあった。消毒アルコールの臭いがかろうじて血の臭いを抑えている。伊吹は甲斐甲斐しく酷く血だらけになった乗組員を次々に看護するのを手伝っていた。艦内において彼女は最年少であるのにも関わらず、彼女は大人と同等に働いた。なによりも誰もが彼女の顔を見ると自分の怪我の痛みを忘れて喜んだ。そして自らの心配より先に伊吹が戦闘に巻き込まれていることを心配した。伊吹は懸命に働きながら、命がけで戦ってきてここで無惨な姿をさらして歯を食いしばる兵員たちが自分を励ましてくれる、あるいは、心配してくれることに感謝せざる得なかった。
 そこへ一人の二等水兵が顔半分を酷い火傷で爛れさせて自力で入室してきた。
「水をくれ。」
 伊吹はすぐに彼に駆け寄って、手近の水筒を彼に与えた。美味しそうにごくごく飲むと彼はその場にどさりとしゃがみ込んでしまったので、伊吹は華奢な腕両方で彼をドアのすぐ横の壁へと寄りかからせた。次々に担ぎ込まれるあるいは現れる怪我人は通路に溢れていて、ドアをふさぐ訳にはいかなかった。
「すまない。力が出ないんだ。」
「がんばって!今、衛生兵を呼びます。」
「いや、もう、大丈夫、痛くないし。」
 水兵は汚く爛れた火傷を同じく爛れて棍棒のようになった左手でこすって不気味に笑った。痛くない?そんな訳がない、伊吹は胸を掻きむしられた。
「君、なんでこんなところにいるの?」
「え?」
「いや、忘れたかな?ほら、戦闘前に僕の高射装置にやってきたよね。」
 水兵はゆっくりと夢の寝言のよう呟いて、両手をぐたりと開ききって投げ出し、ぱたんぱたんと両手の先を二,三回床を叩いた。
「一番高射装置だよ。」
「あ、あの時の出迎えてくれた水兵さんですね!」
 伊吹ははっとした顔で水兵の無事な右手を掴んで、握りしめた。
「あはは、こんな顔になっち待ったからねぇ。実家に帰ったら許嫁がなんて言うかなぁ。」
 水兵は火傷のない方の顔を使って苦笑いした。
「あの場所も被弾したんですか?」
「うん、艦橋…背後に…爆弾…落とされ…たんじゃ…ない…かな。…気が…ついた…ら、僕の…高射装置は…セルター…甲板…落ちて…いて逆さまに…なって…いたよ…」
 急に、息を苦しそうに喘ぎながら水兵はなんとか言葉を話を繋いだ。
「何が…どうだったのか…よく…わからなかった…けど、燃えだして…助かった…のは…僕…だけ…の…ようだ。」
「徳村兵曹長は?」
「……燃え…つきた…あの中…だった…と思う。」
 くぐもった高角砲の射撃音が妙に耳を突いた。ガチャガチャと耳障りにざわめく治療器の山がそれに被さって聞こえてくる。伊吹はこらえていた涙が落ちてくるのをどうしようもなかった。あの、無骨で頼りになりそうな優しい兵曹長!
「そう…いや、…これ…を…君…に…あげ…るよ。」
 水兵は片からぶら下げていたやはり左半分焼き焦げた双眼鏡を差し出した。
「…徳村…さんが…、戦闘…開始…した…後…じゃま…だから…おまえ…持って…いろっ…てさ、…それ…で…大事…な…兵曹…長の…品…だか…ら…僕…が…そ…の…ま…ま…お持…ち…し…て…い…た…ん…だ…。」
 水兵の首に下げたつり革をほどいて、伊吹はその双眼鏡のアイピースを見た。”Carl Zeiss 50×12”と白い刻印がかろうじて見えた。裏返すと、そこに「トクムラ」と焦げた名札が張ってあった。伊吹はもう我慢ができず、双眼鏡を胸に押し抱いてしゃがみ込んで嗚咽しはじめてしまった。
「…ご…め…ん…、僕、…そう…いう…つ…も…り…で…君…に…そ…れ…を…渡…し…た…んじゃ…ない…んだ。…泣かないで…くだ…さ…い、准…尉。…ごめん…なさい…。…ご…め…ん…なさい。…」
水兵は棍棒の手を伊吹の肩にのせて、生身の顔半分をとまどいの表情にしながら少女に謝罪の言葉を何回も繰り替えした。
「あ…あ…、何…て…今日は…酷…い…日…何…だ…ろう!…火傷…した…上…に…頭…も…腹…も…痛…てえ…よ。…」
最後に彼は小さく呟いた。途端、げほっと大きくげっぷをし口から吐血した。鮮血は伊吹の白いセーラー服にも降りかかり赤い水玉模様を付けた。
「あっ!」
その音を聞いて伊吹が顔をあわててあげると水兵は既に息絶えて安らかな顔で力果てていた。そこへ衛生兵が駆け寄ってきて腕の脈をつかみ、次いで彼の目を指で開いた。
「ああ、駄目だ。」
伊吹は衛生兵の背中へ顔を埋めて無言で泣きじゃくった。
「准尉。さ、立ち上がって。ちょっと休まれた方が良いでしょう。軍医長には自分が訳を話しておきます。」
 衛生兵はそんな彼女を起きあがらせると、そのまま彼女を抱きかかえて通路へ出て、医務室倉庫の扉を開いた。倉庫はリネンなどが一杯であるが、中には長椅子が置かれていて、仮眠ができるようになっている。伊吹をそこに座らせると「落ち着いたらまた手伝ってくださいね。」衛生兵は微笑んでそういうと出て行った。
 一人になると伊吹は少しずつ落ち着いてきた。我に返って、あちこちが赤く染まった制服を見つめて、人の血が赤い訳って何だろう?と思った。戦闘中に伊吹が見た撃墜された連合軍機のパイロットの悲惨な末路とその血の赤さ、今、すぐそこで繰り広げられている傷ついた乗組員たちの血の赤さ、同じ色のように思えた。何が違うのだろう。戦争がその色の違いを示しているのだろうか。それとも色の同じなことは、全く意味が無いのだろうか。
 抱きしめてきたもはやゴミ同然のツァイスの双眼鏡を見た。あの二等水兵は許嫁がいるって言っていた。この双眼鏡はその彼女へ持って行ってあげたい。
 相変わらずやまない高角砲の激しい砲撃音が艦内深いここまで響く。もう何発もの被弾であろう、不自然な振動と軽い衝撃は味わっていた。

 帰れるの?

 こつんこつんとドアをノックする音がした。
「はい?」
「櫻井上等兵であります。藤原准尉、今井大尉がお呼びです。」
 今井大尉が?
「大尉は艦橋へ行かれたはず。」
「いえ、防空指揮所が被弾しまして、大尉は弾道管制室へ戻られました。准尉をお連れしてなにか作戦を立てるとのことです。」
「私はもう、あそこには行きません。」
 きっぱりと伊吹は告げた。
「お気持ちはお察しします。しかし、今度は攻撃のお話ではないようです。御心配ないようにとの伝言です。緊急のことのようです。」
「わかりました、今出ます。」
 ハンカチを取り出して、涙が乾かない目をごしごしと拭うと伊吹は制服の居住まいを正して立ち上がり、ドアを開いた。
 そこには櫻井上等兵がにょっきりと長身を天井に閊えさせそうにして、神妙な顔つきで待っていた。出てくる伊吹を見るとさっと敬礼する。
「至急、弾道管制室へお越しを。」
「軍医長に告げてきます。」
「いえ、私が既に今井大尉の命令によることをお伝えしております。」
「そうですか。。。。」
 伊吹はちょっと首をかしげたが、この場に及んで緊急とあらばさもありなんかと思い直した。今井大尉。会いたい。
「わかりました。行きましょう。」
 櫻井が露払いのつもりか先頭に立って怪我人に満ちあふれる通路を歩く。その背中を追って伊吹は軽く早足で追随した。