〜彼方からの閃光〜#12

「そういうことを言うもんじゃないよ。」
 ひときわ大きな声を叱責したのは、誰有ろう、ほかならぬ新実軍医長だった。さっとハッチを潜って彼は、伊吹を一瞥しつつその歩みを止めずに、つかつかとまず森下の側へ歩み寄った。
「お忙しいところ失礼、艦長。次の戦闘まで間が開きそうだと那須少佐から聞いたものでしてな。先ほどの戦闘での左足のスプリンター破片を取り出す手術をしたいのです。10分で終わらせます。ガス壊疽が心配です、すぐやりましょう。」
 新実は厳しく真剣な眼差しで森下の目を見つめた。森下はうなずいた。
「わかった。くだらない鉄片のせいで死ぬのはごめんだからね。艦長控室へ往きましょう、軍医。」
「では 早速。とその前に大事の前の小事をば。」
 新実は上目遣いで右手をかざして、頼み込むように「ちょっと待って下さい」と軽く森下を制し、くるりと反対舷側の司令席に回りそこに座って冷たい無表情でこちらを見ている少女の正面に座り込み、その両手を力強く握って語った。
「森下艦長もここのみんな全員が皆、君に感謝している。それをわかってくれるね。」
 すると伊吹はふわっと大きな目に涙を浮かべて、新実の顔をじっと凝視した。
「でも、もういやです、人殺しなんて。」
そういうと彼女は激しく頭を振った。長い髪が大きく左右に揺れ乱れ散った。
「だれも 君にこれ以上闘うことを望んでいる者は居ないよ。皆が心配なのは君がむやみにここで傷つくことだ。
 今、ここは男が生命を賭けて戦う場所だ。いっそう、君には居て欲しくない場所なのだよ。」
 それを聞くと伊吹はそのまま黙って顔を上げて、新実の大きな目を見つめた。
「先生。。。。」
「わかってくれるね。いいかな。」
にこりと新実は微笑んで励ますようにつかんだ両手を軽く振った。
「さ、今井君、伊吹君を管制室か私の医務室に寄越してくれ。」
「わかりました。
 藤原准尉、先生の言われるとおりだと思う。自分も君がわかっていただけることを望みます。」
 今井は新実の言葉を受けて、語尾も強くしかし優しく、説得を図った。が、伊吹は、それでも動こうとはしなかった。
 それを見て、半場諦めた新実はさっと立ち上がり、森下に目くばせした。
 よろよろと森下はすっと駆け寄った渡邉の肩を借りて艦長席を降りて、ついで艦長付従兵と渡辺が入れ替わると、そのまま新実とハッチを降りていった。渡邉他その場全員の、はかとけない視線を集めながら。その静寂を破って信号兵が報告した。
「第2艦隊大和より無電です。”敵機避退中なり、貴艦隊は第2艦隊の東側前面に占位し、近づく新手の敵編隊を迎撃せよ。第2艦隊はこれより敵水上戦闘艦部隊と交戦する。”」
艦長がいないうちは、副長たる渡邉が次席指揮官だ。彼はおもむろに命令した。
「第2艦隊に”了解”と返電せよ。」
『電探室です。敵編隊急速接近!距離40 方位替わらず まっすぐ突っ込んできます。』
拡声器が叫んだ。
「全艦、対空戦闘用意!第八護衛艦隊各艦に信号せよ。”第2艦隊ノ南南東1キロメートルニアッテ対空戦闘配備、交戦開始後ハ各艦自由行動セヨ”」
たちまちそれは復唱されて、艦内高声拡声器で全艦の乗組員に伝えられた。
「副長、主計長から意見具申があった。今のうちに糧食を。お昼にまたがったためにまだ昼飯を食っていないよ。幸いあと十五分は心配ない。」
脇田が進言した。渡邉はそう言われて急に腹が減っているのに気が付いた。
「準備は?あ、手配できてる?じゃ、すぐに全艦に配れ。伝令、全艦に戦闘糧食配布。五分で喰えと付け加えろ。」
梅干し入の大きなにぎりめし二個とざっくり切った沢庵、ラムネ一本が直ぐに配給された。艦橋にも一分を待たずに届けられ、全員がいつのまにか過ぎ去っていった昼飯の時間を懸命に取り戻すべく、がつがつとそれを平らげた。
 糧食を受け取った福井がひょいと伊吹の脇にやってきて、彼女の手にそれを受け取らせた。
「美味いよ。」
 自分もにぎりめしにかぶりつき、口の中をもごもご言わせながら、福井は愛嬌たっぷりにそれを勧めた。
「暖かいウチに食べなよ。辰川烹炊所長のこのにぎりは炊きあがりに赤穂の塩と胡麻を入れているウチの艦ならではの特別製だ。実に美味い。」
 しばらく躊躇していたものの、さすがに空腹だったのであろう。伊吹はちいさくうなずいて一口、また一口とにぎりめしをかじりだした。それを見て福井は微笑んで、ついで今井の顔を『大丈夫でしょう。』『ありがとう』と無言で気持ちを交わして持ち場へ戻っていった。
「お、一個食べましたか?ではもう一個いかがですか?あ、じゃ、ラムネをいかが。」
 今井は自分もにぎりめしを口いっぱいに頬張りながら、伊吹にラムネを差し出した。これは美味しそうに伊吹はごくごくと飲んだ。
 再び拡声器がガリガリといいながら急を告げた。
「敵編隊 距離30 方位替わらず なお急速接近中!」
「時間だ。伝令、全艦合戦準備。主砲射撃準備。第一対空戦闘態勢!」
 渡邉がきりっと襟を正しながら、落ち着いて命令した。伝令が復唱し、艦内の各所で高声拡声器がそれを伝えると、兵員達の安らかなひとときは奪われた。しかし、だれもそれを恨む者は居なかった。全員が既に配置について次の指令を待っていた。
「さぁ、藤原准尉、そろそろ我々の気持ちを汲んでもらって、潔く下へ降りてもらおうか。これは、命令だ。」
渡邉が語気鋭く決然と言った。
「さもないと、命令不服従で衛兵伍長に渡して錨鎖庫に閉じこめるぞ。」
そういうと、破顔してにやりとした。
 伊吹は黙って右舷遠方に小さく見える第2艦隊の方を中止していたようだったが、渡邉の脅迫に仕方がないといった様子でずるっと司令席を降りた。そして、下を向いたまま、小さくため息をついた。すると彼女の背後から新実の快活な声がした。
「どうやら落ち着いたかな。」
 手術を終えた新実軍医がにっこりと笑っている。彼の前に進んでいた森下艦長は従兵に肩を持たれながら艦長席へ向かい、そこへどっかりと座った。
「さぁ、伊吹君、一緒に医務室で私の手伝いでもお願いしたいが。」
 新実は森下に目配せして、そう言った。伊吹の予備の固有配置は特に定めがなかった。(打ち合わせ通り)森下もすぐうなずいた。
「藤原准尉、艦長としての命令だ。軍医長付補佐で医務を手伝うように。」
 そう神妙に命令を下すと、今まで面を下を向いていた伊吹は諦めたように天井を見上げて、さっと左手で目をぬぐうと傍らでずっと佇んでいる今井の顔を見た。今井は首をかしげて制帽の庇をつまんで軽く咳払いをし、「行きなさい。」と呟いた。ちょっとためらった後、伊吹は渋々うなずいて、まっすぐに森下の顔を見た。
「了解しました。お忙しいのに申し訳ありませんでした、艦長。
 藤原伊吹准尉、ただいまより軍医長付き補佐として医務室に参ります。」
 そう答えると小さく敬礼し、伊吹は長い黒髪とスカートを翻して踵を返し、既に歩き出している新実軍医の背後に付き従ってハッチからしずしずと下へ降りていった。
「やれやれ、ああ見えてもまだまだ子供なんだなぁ。」
 渡邉がぼやくと森下がたしなめた。それを聞いてか聞かずか、今井大尉が知らない顔で左舷見張り所へ出て行った。
「本作戦においては彼女の”能力”が要だったのだ、副長。そういう意味では、ここまで来れたのは成功だと思うぞ。いたいけな娘に我々が最後まで頼れるなんて虫の良いことは、望外なことだということさ。」
森下は窓の外を双眼鏡で眺めながら、つぶやくように静かに言った。
「御怪我はいかがですか?」
脇田がいつもの平静を装って尋ねるのを、森下は何事もないといった面持ちで答えた。
「大丈夫だよ、航海長。綺麗に縫製してくれた。軍医長は繕い物も上手だった。」
冗談を飛ばすのを聞いて、艦橋には安堵の雰囲気が広がった。
が、トップ測的所の川村砲術長の力強い声が伝声管から野太く響き、たちまち艦橋内は緊張に包まれた。
『艦長、1番、2番、4番主砲射撃準備ヨシッ!』
「電探射撃用意。」
「電探射撃用意!」
 いつもと変わりなく、森下の指示が復唱される。
『距離30000 方位200』
「両舷最大戦速!」
「両舷最大戦速、よーそろ!」
「各部主砲発射に備え待避。砲炎防護板上げよ。」
再びブラスト避けがばたんばたんと上げられ、暗くなった室内は艦内赤色灯が点けられた。雲量3と報告された晴れた午後の日差しが防護板のわずかな覗きスリットから綺麗な光線を何本もその中に投射され、数人の顔がそれで鋭く切りつけてられているように見える。
「砲術長、捕捉次第、射撃開始せよ!」
森下は伝声管に大きな声で命令を下した。
『主砲、敵機捕捉次第射撃します。』
川村砲術長の元気な復唱が伝声管に鳴り響いた数秒後、「伊吹」の誇る67サンチ重高角砲が火箭を切った。鋭く重厚な砲音が轟き、衝撃で全艦が震えた。

15時35分。
第2艦隊の南南東で第8護衛戦隊の「伊吹」「鞍馬」「富士」の大型対空軽巡洋艦3隻が巨大な砲炎を上げて、迫りくる連合軍の大編隊に大遠方距離対空射撃を開始した頃である。
 「伊吹」の電探に映る第2艦隊の旗艦・戦艦「大和」はそれとは別に水平線上に現れた多数の大型水上艦艇の艦隊に向けて46サンチ3連装3基 計9門を射撃を開始したのだろう、射程距離4万5000メートルからの大遠方距離射撃は初弾から敵艦を挟差し、次々に水柱を何本も上げいくのが映った。やがて敵艦からも砲撃が開始されたが、「大和」の西側遙かにそれらは水柱を上げたのみで、今のところ「大和」のアウトレンジ砲撃は成功しているようすだ。
『電探室です。艦長、どうもいけません。。。敵機は大きく上下左右に小編隊でばらけて、当方の砲撃をくぐり抜けてきます。ほとんど打ち漏らしているようです。』
拡声器から伝わる電探室の声は、悲痛な響きに満ちていた。
艦橋の誰もが無言でその声に対して、胸にずしりとした鈍痛を受けたように感じ受け取っていた。やはり近接信管でない時限信管ではせっかくの対空砲弾もその価値を無にしてしまった。改めて伊吹の”能力”の凄さを実感するとともに誰もが虚脱感を味わうしかなかった。
『敵編隊距離5000 左右半径12キロほどを劈頭にわれわれを取り囲む形で迫っています!』
「もはや主砲では対応できない距離に来たようです、艦長。」
その渡邉の声は穏やかだった。うなずくと森下は静かに命令を下した。
「主砲射撃中止。直ちに高角砲射撃開始。第2対空体制。」
完全な晴天下、幸か不幸かもはや電探に頼らずとも各砲は敵機を視認できるところまで来た。森下はふと気がつくともうしばらくたばこを口にしていないことに気がついた。
「従兵、俺の火を持ってきてくれ。」
持ってこられてた煙草に火を点けて美味そうにゆっくりとそれをのむ。と、ひょいと思い出したように最初の戦闘で打ちつけた左脇腹の軽い痛みが胸を締め付けた。
左足の傷がふいに熱くうずいた。
「副長、私は防空指揮所へ上がる。ここを頼む。」
「わかりました。」
敬礼を返す渡邉の沈痛な顔を見ると即座、立ち上がった森下は彼の肩を叩いた。そして呼び寄せた従兵と今井大尉に肩を借りながら、ハッチを出て行った。さらにそれに続いて、福井少尉が5名ほどの見張り員を連れてハッチを潜った。
「航海長、沖縄まであとどれくらいだ。」
「本島北端 辺戸岬までで30海里ちょうどだ。艦隊速力20ノットで1時間半。目的地の宣野湾なら2時間か。」
窓の外は、煌めく洋上がどこまでも輝いているのに、高角砲が猛烈に射撃して対空弾が炸裂する輝きと灰白い砲煙が空全体にまんべんなく広がっているのが対照的だった。
そして黒い敵航空機がまるで熊蜂の大群のようにその砲煙をかいくぐってこちらに向かってくる。そのうちのほんのいくらかが、撃ち落とされてバラバラと破片だけが飛び散って、その輝く海へと消えてゆく。
 やがて「伊吹」は最大戦速へ増速し、左に右に大きく何回も回避運動を始めた。しかし敵の攻撃は前回の空襲より巧妙だった。急降下爆撃機と雷撃機が4〜6機で小編隊を組み、波状に次々と同時攻撃を仕掛けてくるのは同じだが、その編隊同士がまた同時に時間差攻撃で迫ってくる。至近弾は次々に「伊吹」の前後左右を巨大な水煙で囲いこんだ。それは多量の高角砲群に著しく視界を遮って、射撃指揮装置の能力を半減し、さらに高角砲員は至近弾の影響による破壊の危機と恐怖に晒された。射撃が滞れば、その隙をついてますます激しい攻撃が加わってくる。
 その時、左舷後方で「伊吹」に続いて激しい対空射撃を行っていた「富士」に、そのたくさんの高角砲が放つ金色の火箭とは全く違う、膨張感がおぞましい赤い輝きが前部右舷シェルター甲板で煌めいた。すぐにそれは小さな爆発の黒と灰色が混じった煙を吐いたが、数秒後突如雷のような激しい爆発音が海上に響き渡り、もうもうたる炎が華奢な艦橋下部を舐めあげた。それは高角砲甲板で誘爆が起こったのを暗示していた。
「『富士』被弾っ!」
見張員が絶叫した。「富士」の左舷は濛々たる炎と煙に包まれて一時対空戦闘が右舷だけになってしまった。そこへ更なる攻撃が仕掛けられ、次々と爆弾が彼女の赤い船体に吸い込まれて、命中したものは爆発を繰り返した。やがて魚雷とおぼしき水煙が艦尾を濡らし、「富士」はやがて速力を失って艦首波が小さくなって行く。
 それを見届ける間に、突如水柱が「伊吹」の左舷にも数本立ち上がって、防空指揮所まで土砂降りのような塩水を浴びせた。雷撃の命中だった。
「左舷に被雷っ!」
「被害箇所知らせ!」
伝声管に今井は怒鳴った。
『左舷フレーム番号35番付近と43番付近。2本やれましたっ!』
その声を遮って見張員がまた叫ぶ。
「敵機頭上!」
「取り舵っ! おい、損害状況はっ!」
『すみません!左舷第一缶室および第一機械室に大破孔。大量に浸水!』
「排水せよ!なに?間に合わない?!そうか、排水弁が駄目か。では缶室、機関室水密隔壁閉鎖。右舷区画に注水せよ。」
「1番軸機関停止。速力27ノットに低下。」
 今井が息せき切って森下の横へ縋り寄ってきた。
「艦長、第二艦隊から電信です。<第二艦隊伊藤整一司令発 我タダ今敵水上艦艇と交戦中。水雷戦ニソナエ貴艦隊ヨリ第一八駆逐隊ノ派遣ヲノゾムモノナリ>以上です。」
「了解と伝えろ。駆逐隊各艦に電信せよ。<各艦直チニ第二艦隊ノ水上戦闘ニ加ワレ>以上。」
森下は躊躇なく即答した。
それを聞いて今井が後ろを振り向いたとたん、激しい衝撃が彼と森下、いや、その場の人間すべてを突き飛ばし、ついで頭上のメインマストからあろうことか縦3メートル横5メートル重量1.5tの網目状に鋼材を組んだ巨大な二七号電探のアンテナ本体が射撃方位盤の上に覆い被さるように落ちてきた。それは幸い左の測距儀の腕でひっかかり方位所の艦尾側にずれて残った。それは、かろうじて10数名がひしめき合う防空指揮所には落ちなかったものの、ただ、主砲射撃指揮所と測的所の回転を不可能にした上に、直上の防空見張に大きな障害になってしまった