〜彼方からの閃光〜#17

 <伊吹>からの重高角砲による援護射撃三斉射は主力艦三隻で一番被害程度が酷く半身不随の<富士>にとって、例え虚仮威しにしかならないといっても大いに感謝するものだった。それはその場限りのものであって、その後も彼女を救う決定打にはなり得るかどうか疑問であることを<伊吹>の艦橋に立つものの誰もが抱いていたのだが、案に相違してそれでも<富士>の頭上はるか高空で炸裂した対空弾散弾は、その巨大な弾幕を敵機編隊にぶら下げて一時敵機の戦意を挫き、その黒い霞のようなまとまりをバラバラに散らすことに成功した。
虫の息で進む<富士>に向かって襲いかかろうとする構えで、悠々と水平線から侵攻していた雷撃機は、突然の攻撃に投射角を定められぬまま魚雷を投下せざるえず、その魚雷はあらぬ方向へ航走していくしかなかったし、頭上の急降下爆撃機はもちろん攻撃を中止して急激な回避行動を強いられた。二十機弱ほどの攻撃隊は、文字通り蜘蛛の子を散らすように編隊を崩して脇目もふらず、めいめいに<富士>から離れてかなり避退した。するとやや遅れて<鞍馬>からも3斉射が怒れるがごとく放たれて、巨大な打ち上げ花火のように<富士>の頭上で破裂し、数秒後恐ろしげな雷鳴のような爆裂音が海上に鳴り響いた。
 <富士>は各所から数条の黒煙を吐きつつ足取り鈍く艦首を巡らすと、やがて遠く霞む陸影の方向へと舳先を向け出した。味方の心強い援護射撃に応じて「まだまだやれるぞ」と言いたいがごとく、生き残った高角砲群をむやみに撃ち上げながら<富士>は回頭を終えた。しかし、<伊吹>から見ると海上に立ちこめる硝煙の中、それはなにか幽霊船のようなぼんやりした影の薄い姿であった。やがて、するすると信号旗が信号ヤードに申し訳なさそうにはためくのが、自らの主砲が吹き上げた砲煙の立ちこめる中、防護版のスリット越しに双眼鏡で様子を見守る森下にも確認できた。
「<富士>より旗流信号です。”左舷傾斜復元ナラズ 傾斜12度 砲撃不可”」
 監視する福井が読み上げるにつれ、森下は厳しい顔になった。
「<富士>の電信は生きているのか?」
「こちらからの電信は届いているようなので受信のみが生きているようです。」
「電話は?
「全く通じません。」
「ふむ、そうか。では仕方がない。<富士>に信号せよ。”直チニ戦線ヲ離脱、艦ヲ維持スベシ”」
森下は伝令にそう言い渡すと、きびすを返して伝声管から防空指揮所の副長を呼び出した。
「副長。降りてこられるか?」
渡邉の枯れてはいたが良く響く声で伝声管をビリビリと共鳴した。
『主砲を撃ったせいか敵機は遙か上空へ上がっています。敵の攻撃も一段落かもしれません。ああ、ちょっと待ってください。』
その動静を探りつつ勘案しているのであろう、次の言葉が出るまで少々の間が置かれた。
<伊吹>の頭上で何が起こっているのかは、室内では今や全く分からない。海上は先ほどまで立ちこめていた砲煙が大分クリアになってきた。<富士>のほうは、完全に艦尾をこちらに向けて、相変わらず敵機を高角砲で威嚇しつつ、やや速度を上げて離れてゆく。何かを警戒するように敵編隊は雲の上から様子を見ている。そう、<伊吹><鞍馬>の主砲が彼らを狙っているのを観察しているのだ。それは事実はたがえど彼らを三式弾の餌食にすべく屠るための罠にも見えるだろう。彼らに与えている緒戦の三式弾の威力の記憶は恐怖そのものであった。
「艦長、<富士>が了解旗を上げています。」
見張員が叫ぶ。福井少尉はそれを横で聞きながら「彼女の行く手に幸いあれ」と念じた。<富士>が本土へ戻れる可能性は状態から押して低い確率であろう。浸水を止め、その排水を必死に行い、傾斜復元を取り戻し、壊れかけあるいは水につかりつつも動いていることが奇跡な機関と舵をだましつつ、連合軍の潜水艦が潜む本土までの東シナ海を、白い筋が幾筋にも伸びてくるであろう水雷攻撃に怯えながらほぼ一日以上かけて戻るのだ。素晴らしい獲物、美しい獲物。彼女には、そしてその乗組員達には今帰還できることを喜ぶものは誰一人としていないだろう。このまま傷ついた<富士>を沖縄へ連れて行くことのほうが、彼女の滅亡にはどんなにか喜ばしいのではないかと福井は考えたが、どちらにしても<伊吹><鞍馬>と行動を共に出来ないとなれば、それすらも既に無駄骨に、犬死になることは自明の理であった。
と、森下の抱える伝声管から大声が漏れて離れている福井にも聞こえてきた。
『艦長!どうも敵は集合しつつ南へ向けて撤退するようです。数は三十ほどです。これで空襲は終息しましたな。とりあえず降ります。』
「頼む。」
 軽くうなずくと森下は、直ちに艦橋窓枠の防護板を下げよと命令した。ばたばたと作業し室内が明るくなると何とか生き残ったとほっと安堵する兵員達の疲れた顔がよく見える。
 そうこうして落ち着いた頃、防毒マスクをはずしながら汗びっしょりの渡邉がハッチドアを潜って来た。その姿を見て、森下はいつになく頼もしく感じた。
「渡邉艦長、留守中ありがとう。」
「ははは、いえいえ、大変楽しませて頂きました。」
 渡邉は満足そうな表情でにこやかに返答した。
「<富士>はもはや使い物にならないようだ。北に避退を指示した。」
「見たところ浸水が酷いようですね。護衛は?」
「ご覧の通り、いわゆる徒手空拳だね。」
 左舷前方に広がる水平線上を双眼鏡で眺めやりながら、笑いもせずやや神妙に森下は答えた。
「第二艦隊への援軍に向けた駆逐隊から一隻くらい引き抜きましょう。もし、途中でなにかあれば。考えたくないですが。」
「打電してみるか。どれがいいだろ。」
「<梨>がよろしいでしょう。艦長の蓮風少佐は<柳>の佐藤中佐の下、ねばり強さで定評あります。」
「佐藤中佐が寂しがるかな。よし、伝令、第二艦隊へ電信せよ。 ”落伍の<富士>を護衛するため駆逐艦<梨>を派遣されたし”
あぁ、”緊急”を付けてくれ。」
森下はそう告げると海図台へ足を運んだ。
脇田と今井が森下の顔を見た。
「ここまで頑張れたことだけでも天佑でしょう。さておき、<鞍馬>と我々二艦ですねぇ。東に陸影を見ているわけですが、いかがしましょう。それとさし当たって第二艦隊と連合軍の動静ですね。」
「このうねりの荒い海に感謝だな。敵艦は大分春の嵐に翻弄されているようだ。追い風なので理想的な条件で<大和>は緒戦で首尾良く敵艦を相当数屠ったようだ。その後、敵味方双方反抗してすれ違ったが、今度は避退する連合軍を北から第二艦隊が追尾しているらしい。」
「海神さまに感謝ですね。」
渡邉もまた真面目な顔つきでそう言うと、次ぎに額に掛かった髪の毛を掻き上げて制帽を持ち直すとぽそりと「そして飛行機から彼らを守った我々にも。」とつぶやいた。
「まだ勝負が付いたわけではない。依然として数では勝負が付いていないのだ。もうじき低気圧が完全に抜けるし今行動する方向は穏やかな海面が予想される。夕闇に包まれれば潜水艦の脅威もでる。」
「電探があれば情報を。」
今井は見えるはずもない羅針艦橋背後、メインマスト構造体中にあった電探室の方向を凝視するように、羅針艦橋の艦尾側を見た。実際、廃屋になった電探室は十五名の兵員の墓場となってしまった。
「<鞍馬>から電探の情報は逐一入手している。こっちの通信関係は奇跡的に生きているのを運命に感謝しなければ。」
「どうだろう、我々と<鞍馬>は第二艦隊の北方に繰り出して、追撃してくる敵艦隊へT字に向かっていったら。我々が対艦用の装備を持っていないことは奴らは知らない。十分、心理的脅威を与えることが出来るだろう。あー、航海長。」
森下に声をかけられると、海図台から顔を上げて脇田が思案顔でこちらを見て返事した。
「今現在出しうる二〇ノット強です。<大和>の知らせる連合軍艦隊の位置方向速力が特に変化しなければですが、うーん」
脇田はここで再び海図台で計算尺を繰ってデバイダーと定規を海図にあてた。
「方位272で直線で進めば二〇分後に視認できると思います。が、しかし艦長、彼等が電探で一六吋砲を撃ってきたら、視認するより前にアウトレンジされますよ。ましてこれから夕方に入り目視が十分でない場合、相手の数で砲弾の雨に晒されますが。」
「分かっているよ、要は【 戦 う こ と じ ゃ な い 。】」
最後を一語一語強調して、T字戦法の理由を森下はこともなく言ってのけた。それを聞いて脇田も今井も目を丸くして驚いた。今井が耳を疑って「艦長。今、なんと言われたんですか?」と小声で尋ねた。無言だがその表情に快活な笑いを作ってから明瞭に森下は答えた。
「逃げるのさ。逃げるんだよ、そのまま。」
「T字戦法で敵艦から逃げるなんてきいたこともありません!」
伝令が駆け寄ってきた。
「艦長、高射長からです。」
「繋げろ。高射長。あ、私だ。あ、そうか、うん。うん。うん。うん、分かった。」
艦内電話を取り上げると那須高射長が案外落ち着いた声で報告してきた。
「伝令、<鞍馬>へ電信せよ。”我が艦背後に付けよ 敵艦隊ト交戦用意”」
森下はそう告げると、居並ぶ面々に作戦を説明しだした。
「我々は対艦攻撃装備を持ち合わせていない。唯一、対潜弾を持つが、これも砲撃戦には役に立つものではない。」
森下はきりっと眼差しを上げ、制帽のつばをぐっと押し上げ、一人の顔を見据えながら話を続ける。
「しかし、敵は我々の攻撃力を知らない。そこが付け目だ。かの<大和>を凌駕する大きさの、我が艦は敵の目には戦艦にしか写っていないだろう。どうだ、逆の立場だったらこれが2隻も突進してきたら第2艦隊どころじゃないと考えるがね。主砲も口径だけなら16吋なんて目じゃないよ。」
それまで真顔でいた脇田はクスッと破顔した。面々の顔も明るく自信がみなぎってきている。更にさも面白げにふっくらと満面の笑みを浮かべて森下は語った。
「アウトレンジされないように我々は敵艦隊の射程ぎりぎりで北東東へ変針する。それまでやつらは南進しているしその先には<大和>が居る。我々を追うだろう。幸い奴らは鈍足の戦艦部隊だ。反転して我々を追うにしてもまだ荒れているうねりのでかい洋上と向かい風。我らが逃げられるのは間違いない。」
巡洋艦や駆逐艦の高速艦艇がありますが?」
今井が心配して口を開いた。
「こいつらは我々の主砲でも駆逐できるよ。8吋砲の射程は我々の主砲とどっこいだ。三式弾で焼夷弾の雨が降ってきたらさすがに突っ込んでくる気がでないだろう。近接されても駆逐艦なら副砲で応戦も有効だしね。後は少しでも機関が復旧することを祈ろう。」
「艦長、概ねは理解できましたが、第二艦隊を見捨てて我々だけおめおめ戻るのはいささか。。。」
渡辺が珍しく反論を含んで、言いごもった。
「本作戦出撃前、伊藤長官と相談していて、第二艦隊沖縄突入の目算がたったら我々は戦線離脱して良いと話を付けている。」
「しかし」
「副長、この艦は<大和>より吃水が深く沖縄のどの湾にもそう、近づくのは容易ではない。もし、途中座礁し、動きが出来なくなれば装甲を持たない本艦が、沖縄侵攻部隊艦船二千、兵力二〇万と言われる敵兵力の中、何ができるだろうか。」
「それでも特攻で有る第二艦隊を見捨てては‥。」
「まぁまて。もちろん逃げるがこの作戦を続けないのではない。待避して一つのことを待たねばならない。その後我々は遊弋することで非常に重要な行動をする必要があるのだ。」
それを言うと森下は厳しい顔をし、海図台の上の小さなマーカーを一つ指さした。白い客船を模したマーカー。<氷川丸>。
「後方のこれを守らねばならん。これは絶対に死守せねばならない。」
渡辺には初耳の内容だった。<氷川丸>?彼女はただ沖縄での病院船任務で付いてきているだけではないのか?
「本作戦は単なる特攻ではないのだ。<氷川丸>こそ、この作戦本来の主役だ。」
今井が固唾をのんで質問した。
「艦長、それはいったいどういう事ですか!?」
「<氷川丸>は病院船です。あの船は呉でも一度訪れてきましたが、何の兵器も乗っている気配がなかった‥。」
渡邉も意外さを隠せないやや熱っぽい調子で尋ねてきたが、森下は彼の瞳をじっと見つめて口を結んだまま答えなかった。その目には唯ならないものを湛えているのが、居並ぶ幹部たちに染みいるようなものを感じさせた。やがて、森下はおもむろに口を開いたが、それは理由を明かせてもらえると期待した周囲をがっかりさせるものであった。
「今は言えない。この件は連合艦隊司令長官と伊藤長官、私のみ三人だけが知る事実であり、大本営の大部分は、それを、その事実を知らない。明かせてはならない。その時まで。」
森下はそう言うと、全員の顔を見回した。
「我々は逃げるが今後の戦闘放棄ではない、我々は<大和>護衛もさることながら、その護衛に有る程度成果を見た後は沖縄本島への進攻は彼らだけが担う。作戦は第二段階に入った。これからは<氷川丸>の護衛を本務とする。<氷川丸>は沖縄へ向かっている。故に今後の行動はそれを勘案して執り行う。今、ここで討ち死にするわけには行かないのだ。
さ、みんなこれで当座の作戦を理解できたかな。まずT字戦法で敵艦隊を脅かし、北東へ逃げたら第二艦隊が突入するのを見守ろう。
その後は何が有ろうと<氷川丸>を護衛し死守するのだ。副長、航海長準備を。」
「分かりました。直ち砲戦準備にかかります。」
各員は小さく、しかし決然とうなずいた。それを見てまず、森下は海図台に覆い被さるように体を曲げ、各艦艇の位置関係を見つめた。
「航海長、交差進路を割り出してくれ。操艦と<鞍馬>への命令を頼む。」
「分かりました。」
脇田はややしてから上体を起こし伝令を呼び、僚艦への進路伝達を指示した。艦橋内は急に忙しくなり、各部への伝達作業で大わらわとなる。
「見張り!潜望鏡に注意しろ!!」
渡邉が怒鳴った。重高角砲がするすると砲身を低く定位置に戻し、いかにも水平線へねらいを定めているように見える。
各員は作業に追われつつ、誰もが森下の言う作戦を胸の中で反芻していた。中でも<氷川丸>に何かあるのは分かったが、それがなんであるかは誰も見当が付かなかった。<氷川丸>と言えば、帝國郵船の優秀定期客船で戦前から様々に活躍してきた由緒ある船だ。今は病院船に改装され南方を主に活動を繰り返し、二万人以上の傷病者を救ってきた。もちろん戦乱の危うい場面に遭遇することもあったが難を逃れ、今は数少ない活動可能な一万トン以上の船舶となっている。この作戦では特攻ではあるが、彼女は負傷者を助けるということで付いてきていると誰もが聞かされていた。しかし、森下が意外なことを明かした。先ほどの様々な内容に思いを巡らせながら、防空指揮所へ出ようとした今井は、胡桃沢と行き会った。
「大尉、なにかお悩みのようですね。」
「いや、そうでもないよ。ただ、自分こそいろいろ知っているという気で居ると、その意外な現実というか事実に直面したとき、いろいろと面食らうことも多いというのかね。」
「大組織って言うのはそう言うモンじゃないですか。誰もが全ての裏表を知っているつもりで、案外、何も分からずにいることも多いわけです。」
「分かる。でも、私も陸軍と海軍と御上と三つ巴で歩いてきた。地獄耳の君も伝え聞いたろう。」
「なんのことでしょう?」
「まぁ、いい。今、森下艦長が今後の作戦を立てたが、思わず意外な話をされたよ。<氷川丸>を護衛するんだ、この後。」
今井は見張り所のブルワークに両手を突き立てて上空を見上げた。メインマストは相変わらずへし折れているが、作業員がその落下を防ぐためトップのヤードだけ切り落とし、するするとそれを中甲板へとおろしているのが見えた。両舷逆探の受信機が既に復旧している。艦橋直下のシェルター甲板を見れば、先ほどまでは地獄のような有様だったのに、足が滑りやすい血糊の海も軽く洗い流されて、電纜の引き回しも整理されて、各所の再整備が進んでいるのだった。今は火災も収まっている。洋上は午後の傾きかけた陽射しの中靄気で大分遠方視認が難しくなってきている。電探は壊滅したままで、たのみの<鞍馬>からの伝達に通信室は緊張で張りつめていることだろう。艦尾よりには数名の見張り員が立っているが、なかでも福井少尉が真剣に洋上を双眼鏡で見張り続けているのが印象的だった。若いが、これだけの戦闘の中、その落着きさは今井はなかなかのものと思っていた。
ふと、再び先ほどの艦長の話を思い出す。双眼鏡で洋上を探す胡桃沢に向かって、小声で今井は語りかけた。
「それしても艦長が言う<氷川丸>云々とはいったいなんだろうか。君、なにか感じないか。」
「ああ、それですか?私も不思議だと思っていたんですよ。」
今井に並んで、防空指揮所へ立った胡桃沢は遠く水平線を見渡しながら、鼻をすすった。彼は先ほどの作戦打ち合わせに加わっていなかったはず。
「なんか、寒いですね。潜望鏡見つけたら更に寒くなるかな。」
「胡桃沢君、その、何を不思議に思ったのかね?」
「あ、いえ、呉を出る間際におかしな注文を艦長付けの備品として<氷川丸>へ納品したんですよ。」
「ほう、それは何だったんです?」
胡桃沢は目だけを笑わせて答えた。
「出雲蕎麦乾麺百キログラム、活鰻参拾八匹、ダンヒルの高級ゴルフセット一式、あと十数冊の洋書。この戦時に大変な調達でした。一体、誰がそんなものを艦長に頼んだんでしょうね。しかも我が艦の帳簿からですよ。」
それを聞きながら今井は抱えていた双眼鏡を目に当てた。アイピースをしきりに調節したが、目が疲れていたのであろうか、どうしてもピントが合わない。使い慣れた双眼鏡、闇の中でもその操作は誤り様がないものだが、どうもどこか不具合があるようになったようだ。思い起こせば、自分が弾道管制室に居たころ、双眼鏡を置いてあった羅針艦橋は激しい機銃掃射を受けている。ロッカーから落ちたのか、あるいは流れ弾でどこかをぶつけたのか。
「いったい、なにがどうなっているんだかわからないなぁ。」
つぶやく胡桃沢をよそに黄金色に染まりつつある東の空の向こうに遠くかすんだ島影を見て、それがほぼ背後に遠ざかってゆくのを感じながら今井は、ふと伊吹の美しい瞳を思い出した。
「先ほどの報告にあった8kmに見た陸影だったのは沖永良部島だったようですね。」
ちょっと残念そうに胡桃沢は言った。
「もうじき敵の戦艦群と遭遇する。」
我に返って今井はつぶやいた。すると胡桃沢が返した。
「反転するのが遅すぎないように祈るばかりですよ。」
「胡桃沢君、それは艦長に失礼だろう。」
「判断の過ちは完璧と言われる人間にもあることです。でも‥」
双眼鏡をふとおろして胡桃沢はひょいと今井の顔を見た。
「私は藤原准尉へのあなたの判断は完璧な人と賞賛に値すると考えますよ。」
「なんだ、貴殿、やっぱり知っていたじゃないか!」
軽くしかし鋭く彼の脇腹へ、肘鉄をついて今井は笑った。にやりとする胡桃沢の愛嬌ある顔は直ぐに双眼鏡で隠されて彼は何事もなかったように再び洋上を眺めた。