〜彼方からの閃光〜#11

「出来ることと出来ないことがあるんだ、まったく。ブリッジの連中にはほとほと参るな!まったく。」
壮大な機械噪音オーケストラが耳の鼓膜を破らんとするばかりの機関室でそう怒鳴って、汗でぐちゃぐちゃの白髪交じりの頭に兵帽の鍔を後ろ向きに被った檜山充嵩機関長は、額の玉垂れの汗を首に下げた手ぬぐいでぬぐった。
「機関長、第二機械室の補助復水器ポンプが弁動作不全だそうです。手を焼いているようなんで、ちょっと自分が行ってみます。よろしいですか。」
機関長附属特務中尉長笠嘉一朗がやはり額から汗をたらたらと滲ませて檜山の前にひょいと立った。まだ二十歳をいくらも出ていないがそんじょそこらのエンジニアとは違う才能を「伊吹」乗り組みから異端無く発揮してきた檜山の片腕である。
「おお、頼む。」
長笠はさっと敬礼してきびすを返した。直ぐに彼は自ら機関兵三名を呼び集めてハッチを出て行った。
檜山は目を細めて「けっこうしっかりしてきたわい。」と一人ごちた。
彼ら縁の下の力持ち機関科兵が掌握する「伊吹」の広大な機関部は、その全身の3分の1を占める。艦本式水管式高温高圧ボイラー8基 艦本式ギヤードタービン4基4軸 198,000shp を発揮、公試では最大速力31.6ktを叩きだしている。 重油搭載量5,200tで 18ktにて6,020NM 14ktにて9,950NMという航続距離は、伊吹型大型対空軽巡が遠洋して迎撃を目的としていないあくまで近海での対空戦を想定していることを物語る。戦時急造であったこともあり主缶は、比較的小型軽量の陽炎型駆逐艦用の設計を流用しているのは前にも書いた。
「機関長っ!機関長っ!テレグラフが動いています!」
傍らでテレグラフの警報が鳴ったのに気が付かなかった。掌機関長が代わりに叫ぶ。
「左舷機一杯!右舷機逆転一杯!よーそろー」
「左舷機一杯右舷機逆転一杯だとっ??! あー、よーそろーっ!」
こいつは、車の運転じゃないんだ。そう簡単に機関を逆転出来るわけ無いだろう。とはいえ酷い騒音の中では怒鳴っても始まらない。左舷機は過給して一杯にし、右舷機の高圧タービンへの蒸気を切断し、慣性で回り続けるプロペラシャフトが停まるのを待つのに1分弱、しかし慎重に後進用タービンへ切り換える。2機の右舷機減速機がガリガリと嫌な音を立ててシャフトが暴れだす。十秒くらいするとゆっくりと、全くゆっくりと軸が逆方向へ回り出した。
「いくら戦闘とは言っても、これではタービンが持つ物も持たん。おい,さっき破損した減速機の2番4番の潤滑油弁はどうした?」
減速機担当機関兵が即答した
「部品交換に手間取っています。」
「なにもたもたやってるんだ、急げ、とにかく急げ!」
と、艦内電話が鳴り、彼は受話器を取り上げた。
「掌機関長、四番缶室で高圧給水加熱器が高負荷で高熱を出して操作盤の横にいたたまれないから、ついたてに断熱材の予備を求めてきましたが。」
「第二機械室予備倉庫にいっぱいあるから、どれでも持って往けと言え。」
掌機関長が怒鳴り返した瞬間、突如くぐもった深い爆発音が聞こえた。直ぐに再び艦内電話が鳴り主機担当機関兵が叫んだ。、
「機関長っ、艦橋より連絡です。左舷フレーム番号八十七番付近に被雷っ!第二缶室直横の重油庫が破られて急激に浸水、前後隔壁を閉鎖。」
「なに?!」
さしも森下艦長の神業操艦もここまでか。息せき切って伝令が駆けよる。。
「機関長、第二缶室の内山二水です。分隊長より御報告致します。"一四五八、左舷に被雷爆発音、直後八八番フレーム付近の側面壁より毎分1tのビルジ漏水発生。防水応援乞う。”以上であります。」
「第二缶室を死守するんだ。人を回せ。掌機関長行ってくれ。」
落ち着いて檜山は即座に指示し、掌機関長は水兵とともに出かけていった。
再びテレグラフが動き警報が鳴る。主機担当機関兵が怒鳴る。
「両舷機原速!」
「よーそろ」
戦闘状況が見えない、ここ船底で、艦の心臓を預かる我々は、とにもかくにもこの機関を動かし続けねばならないのだ。そう命運が決まるその瞬間まで。檜山は乾いた口の中で生唾を飲んで左右の機関操作レバーを同時に三ノッチ手前へ引いた。






「艦長、報告します。急降下爆撃機による被害、後部甲板98番及び107番フレーム左舷に破孔、第20兵員室、医薬庫、左舷浸水800t。重油庫の火災消火完了。第2缶室の浸水微量、排水中。全艦戦闘可能。でも左舷の6割の燃料庫が空になりました。」
こわばった面持ちの渡邉からの報告に森下はまだ余裕があるといった笑みを浮かべた。
「痛い一発だな。魚雷が浅い調程深度だったから舷側被害が小さかった。深かったら終わっていたかも知れん。」
とはいえ、帰還するだけの燃料は失ってしまったわけだった。
「ま、仇は取れたからとりあえず善しといたしましょう。あの状態で片舷注水までは行かなかったのですから、さすがです、艦長。」
あの最後の雷撃機たちから受けた被雷1発という、この被害は奇蹟のようなものだ。七本の雷跡が狭い射角で打ち込まれてきた時はぞっとした。三本が当たったものの、うち2本は不発であった。
「檜山機関長へその讃辞をそのまま送りたいな。」
「あとで機関長へ言い含めておきます。」
重高角砲が続ける砲撃の爆音の中、赤色灯が点る暗い艦橋で二人の白い歯が妙に鮮やかに光って見えた。「伊吹」は前部主砲を左舷前方へ向けて砲撃を続けていた。
「今井大尉、第2艦隊の被害を聴いてくれ。」
ほどなく、今井が旗艦大和から受け取った電信を報告した。
「”大和被害爆弾命中2、被雷3、速力25ノット発揮、戦闘可能。駆逐艦「浜風」「朝霜」沈没 戦闘続行中”」
前方の防護板のスリットをのぞき込んだままその報告を聴いた森下は、振り返りもせず無言でなおスリットを凝視していたが、やや間を重い口を開いた。
「敵機勢力は?」
「電探によると艦隊上空に30機近い敵機が認められます。」
伊吹の”能力”を欠いた重高角砲の改三式弾は敵機に相当な恐怖感を与えたが、時限信管では近接した時には読まれてしまい敵機を逃がすことが多かった。撃墜数は激減している。海上は雨も止み今は雲が切れてきていて、スリット越しに午後の緩やかな陽射しとほのかな暖かさを感じるようになってきた。
「艦長っ!駆逐艦「柳」から電信です。敵潜水艦と思しきスクリュー音3乃至4を探知 位置 隊列進行方向東北東”」
「柳」の佐藤 久艦長は数多くの船団護衛を経てきたベテランである。間違いはないだろう。森下は直ちに下命した。
「旗艦より指令。”「柳」「梨」「楓」の3隻にて潜水艦を迎撃せよ。”以上」
ただちに電信に答えて各艦が了解旗を掲げて、舳先を回らした。
福井少尉が主砲砲撃音に負けぬように大声をはり上げた。
「第2艦隊まで距離3500 交戦しています!」
「奴らも我々の重高角砲で攻撃しにくいだろうな。とりあえず奴らもそろそろ燃料が尽きる頃です。」
「副長、そうなると我々もそうだが、最後のあがきという奴が恐ろしいな。各艦へ信号。「満月」「新月」は我に続け。その他駆逐艦は全艦対潜哨戒態勢で南方海域後方を警戒。”」
今井が信号を打って戻ってくると困惑顔で
「艦長、駆逐艦「新月」が了解信号を返しません。」
「返事するまで「新月」を呼び出せ。」
渡邉が代わりに憮然と返事をした。「新月」艦長は帝國海軍唯一の女艦長で美貌で知られているが、男勝りで古武道の達人、酒豪でケンカぱやいので名物艦長として勇名を轟かせている。「満月」艦長の沖野のもさることながら、彼女にも逸話があった。彼女は昨年夏、前任の海防艦210号で沿岸哨戒中、でくわした2隻の敵潜水艦を追い回して、その一隻を爆雷で撃沈、もう一隻を衝角攻撃して強制浮上させ、そこを自らサボルタージュ仕掛けて拿捕してしまったという恐ろしい女武者だった。だからと言ってはなんだが、独身らしい。
そこへいそいそと防空指揮所から見張長が降りてやってきた。
「艦長、駆逐艦「新月」がこちらへ接近してきましたよ。右舷後方150mくらいまで来ています。」
「おー、見張長直々か。また、なんで。」
「他の者を伝令にだすのを躊躇われたので。」
落ち着かない面持ちで見張長は目をきょろきょろさせた。
「発光信号です。”森下司令に直訴したし。”」
艦橋の全員が顔を見合わせた。
「砲撃一時中止、右舷の防護板を降ろせ。」
3枚の防護板が降ろされて、艦橋員半数が外をのぞき込んだ。
帝國海軍の誇る大型の防空駆逐艦秋月型 満月型2番艦「新月」が美しいシアーで高波を華麗に切り裂いて「伊吹」の起こす複雑なうねりに乗って高速で近づいてくる。発光信号をしきりに打ってくる。「マテマテ」
「新月」は新造でピカピカの灰色塗粧も鮮やかだったが、その場の全員が目を見張って、その目を疑った。
旗甲板に二人の小柄な水兵が、旗旒信号の係留索にひっからまったまま吊り上げられてメインヤードにぶら下がってわーわーと泣き叫んでいる。
そして艦橋の見張所に第1種軍装も鮮やかに件の女艦長が腕を組んで仁王立ちになっていた。守山万里中佐だ。ぐっと唇を噛んでこちらを睨んで敬礼している。
ちかちかと発光信号がかなりのスピードで打たれた。福井少尉が読み上げる。
「”先ほどの電信了解。送信機故障修理中及び旗旒を喪失した。”」
「おい、あの2名のぶら下がっている奴らは何をして居るんだと訊け。」
渡邉が怒鳴った。直ぐにこちらの30サンチ信号灯がパタパタとシャッターを開閉した。折り返し、返答信号。
「”彼らは戦闘中に信号旗を絡ませた上に密かに酒を呑んで旗甲板で寝ていたので血祭りにした。”」
すると「新月」は再び艦首波を上げだして、そのまま前方へと進み、白い航跡を泡立てさせて「伊吹」から離れていった。離れつつ発光信号が瞬く。
「”戦闘中失礼した。誠に申し訳なし。”」
ぽかんと開いた口を開いたまま、その様子を見ていた慶賀野少尉がぼそりと独り言を言った。
「恐ろしい女艦長だ。」
「まぁ、彼女は御上の血筋だそうだから、下手なことは云わんほうが良いぞ。防護板を上げろ。主砲砲撃再開せよ。」
「藤原准尉。」
全員が慶賀野少尉の声を聴いて、後ろを振り返った。
そこにはぼんやりとした面持ちでハッチから顔を覗かせた伊吹がいた。後からうかぬ顔の衛生兵が続いた。
伊吹は無言のままゆっくりと進み、左舷側の窓枠へ取りついた。
森下が軽くあごをしゃくって、今井大尉に無言でケアをするように伝え、それと見た今井はそっと伊吹の右横へ並んだ。
「お加減は良くなりましたか?」
「はい。」
伊吹はやつれた顔でただ防護板の細いスリットをのぞき込んだまま返事をした。
「嗚呼、それは良かった。でも今はここは戦闘中で危険です。管制室へ戻りましょう。」
「いやです。ここに居ます。」
今井は振り返って森下艦長の顔を見た。森下はすぐにうなずいた。そして傍らの渡邉に何事かささやき、うんうんととうなずいた渡邉が伊吹と今井の横に近寄ってきた。
「大尉、こっちの司令席を彼女にあげてくれ。」
「わかりました。藤原准尉、さ、この椅子を使ってください。」「ありがとうございます。森下艦長。」
伊吹は渡邉とその肩越しにこちらを微笑んで見ている森下へ、小さい動作ながらきちんと海軍式に敬礼をした。それから少し高い位置に有る司令席にちょこんと座った。
「なんかいいもんですね。」
慶賀野がこっそり脇田に囁いた。
「なんかおかしな感じだけどな。本当に俺たち戦争しているのかな。」
苦笑しながらテレグラフに手を掛けて脇田は慶賀野の意見にうなずいた。
居住まいを正して椅子に座った伊吹が、長い黒髪を揺らして今井に尋ねた。
「この艦は今どうなっているのですか?」
「我々を襲った敵A群が後方のB群と合流し第二艦隊へ集中攻撃をしているのです。我々は現在それを防空援護しています。」
「通路にいっぱい怪我人が座り込んで手当を受けていました。私の「伊吹」もいっぱい被害を受けて居るんですね。」
「直撃四つ、雷撃1つ。致命傷はありません。この艦は抗堪性が高いのです。ほぼ全力発揮可能です。」
嘘をいっても今更かと思ったので、今井は包み隠さず被害を語った。
「もう、そこまで第二艦隊は迫っています。」
いつのまにか、主砲攻撃は終了し、近接攻撃のため防護板は降ろされた。直ぐに高角砲群が火蓋を切った。
左舷前方に大きな黒鉄の大戦艦が迫ってきている。重々しく艦首を荒波にツッコミながら、文字通りハリネズミのような高角砲が対空戦闘を行って、多数の対空弾や機銃弾の上げる弾道の光の筋が黒く襲いかかってくる敵機を烈しい戦いを繰り広げていた。周囲には、巨大な水柱がいくつも立って「大和」はその飛沫を浴びながらそれでも悠然と航進しているのだった。
その周囲では、軽巡「矢矧」が率いる第二水雷戦隊が同じく死闘を繰り広げている。しかし、「伊吹」の率いる対空戦闘に特化した第一八護衛戦隊各艦に比べるとかの艦艇は貧弱な対空能力であり、甲型駆逐艦はほとんどその用を足していない。唯一、「冬月」「涼月」が防空駆逐艦の名の通り次々と敵機を屠っているのが見える。
と、「新月」がもの凄い加速でそちらへと突っ込んで行くのが見えた。赤い艦底を波の上にのし上げながらまるでそれは魚雷艇のように大きく白波を切り開いて驀進してゆく。ぱっと主砲が全門連続斉射した。神業的な連射だ。
「こっちも負けられないぞ!高射長!」
主砲方位盤から降りてきた川村砲術長が艦内電話を取り上げて叫んだ。
『じゃんじゃん打ってますって!任せて下さい!』
怪我をしたらしいが那須少佐は元気に返答してきた。
かなり明るくなって青空も見えてきている洋上、敵編隊は隠れる雲が無くなっていた。電探に頼らなくとも三〇機が確実に戦闘続行中だった。
「雷撃機が居ないようだ。爆撃だけだ。」
だれかが言ったとたん、電探室からの叫び声が拡声器から放たれた。
「敵艦隊発見!方位55000 方位 三・一・五」
「戦艦か?!」
「大型艦艇です。数32。うち半分以上が戦艦と思われます。」
「航海長、予想交差位置は。」
即答がかえってくる。
「東経一二八度三一分 北緯二七度三七八分 沖永良部島沖 北 40km付近ですね。現在の第二艦隊の速力は二四ノット。大和主砲の射程内までは二〇分後です。」
「残りの敵機をなんとしても払い落とそう。両舷一杯!取り舵10 全艦艇に信号。”第二艦隊を死守せよ。全軍突撃。”」
「電探室です!敵編隊が現れました!」
拡声器ががなった。
「何を言っているんだ。目の前に居るだろう。」
「違います!新手です!距離70浬 方位170 数200!」
それは絶叫だった。艦橋の誰もが血の気が引くのを感じた。
「。。。。これが。。。連合軍の底力か。。。。」
渡邉が目を見開いて両手に力拳をつくり、それを震わせた。
「時速二四〇浬の敵機との合戦まで後一五分です。いかがしますか。艦長。」
脇田が腕時計を見ながらなにやら数を数えている。命令を催促するなんて脇谷は珍しい所作だった。
「簡単に沖縄への門を開かせるつもりはないようだな、敵さんも。」
からからと笑って森下は明るくなった窓の外を眺めやって、それから伊吹に向かって語りかけてきた。
「藤原准尉、ここはもうじきあまり安全では無くなると思う。管制室にもどりなさい。」
しかし、伊吹は頭を振った。
「あそこに言っても私はなにも出来ないです。死ぬのならみんなとここで死にたいのです。」