彼方からの閃光 #9

 13時50分。伊吹は射撃を開始した。
 敵A群は高度四六〇〇メートルから六八〇〇メートルという非常に縦方向のレンジが広い先が鋭いくさび形の編隊だった。敵の航空機の密度は編隊と呼ぶには極度に密度が低い特殊な状態である。リスク分散を図っているのだろうか。
 やがて「伊吹」「鞍馬」「富士」の3隻から次々と撃ち放たれる一斉射十二弾の改三式弾が音速で近づくのを彼らはレーダーで認めたのであろう、伊吹は初弾に置いた思念を介した念視で、薄い細かな黒い粉が舞うような編隊が更に小さく二十機ほどの単位で素早く分裂した事を確認出来た。そのうち概ね半数は雲海へ飛び込んで雨雲の中へ突入し、残りは左右に大きく分散しながら更に高空へと退避しつつなおも第八護衛戦隊目がけて突入を試まんとしていた。雨雲へ突入した編隊は本艦の電探からの情報に頼るしかなく、刻々と送られてくる成果は三編隊が更に分散して高空へと向かっていることを知らせてくる。後方の第二艦隊は無視されているように見えた。
 もちろん伊吹らの砲撃は、敵編隊の上下左右の三次元的散開と速度及び変位を予測しており、その目標前面では、焼夷弾流半径の重ね合わせを限界に広く攻撃範囲をとっていて、それは伊吹にも砲側にも電探をはじめとする管制側にも今までになくシビアなコントロールを要求するものだったが、その最大拡散状態が直径二千メートル以上にも及ぶ綿密に計算された包囲網には、細かく分散したと言えど敵機の逃げる場所は上空にしか与えられず、エンジンとプロペラから強烈なうなりを上げて高速離脱しようしてもその網の目の焼夷弾にしっぽを捕まえられて被弾し火だるまになって次々と落ちて行った。それでも撃ち洩らした敵機が電探に相当数反応している。
 砲撃は計四斉射行われ、そのうち二斉射は分厚い雨雲中での起爆であり、砲弾に乗り移った伊吹の念視からは、全く相手が見えない状態で電探からの諸元が来ないと敵機がどのようになっているのかわからなかった。次々と射撃盤からの諸元は思念波増幅装置へ送られてきており、まるでそれは何も変化を求めていないような無味乾燥な数字の羅列であって、ある意味、伊吹は本当に自分が機械の歯車となったような錯覚をもって、淡々と砲弾を起爆して行くことに専念するしかなかった。見えない敵編隊A群は、電探からの情報によれば大きく二十以上の個の小編隊に分離したことは確かだった。彼らはそれぞれ間の焼夷弾流から、己の操縦テクニックを駆使して焼夷弾流を予測しあるいは自らのレーダーを駆使して、なんとか悪魔の対空砲火から逃れようとしているはずだ。
 しかし、やはり今回も、伊吹達の重高角砲の投網にも似た弾幕の包囲網には助かりようがなかった。四斉射目で迎撃一時終了となった時、電探には十数機が分裂した編隊毎に更に侵攻してくるのが、捉えられた。直ちに第二回攻撃が指令される。今度は水平方向にずらりと射点を並べて、残敵機を掃討するべく砲撃する。砲弾は雲の下で炸裂したのでいくらかは伊吹にも念視で様子を見ることが出来たのだが、どうにか数機が波間へ落ち込んで往く姿を見ただけで、それも炎と煙に巻かれながら墜落してゆくのがわかっただけだった。この迎撃は低空の雷撃機を目標にしたものだったのと、やはり雲中あるいはその上に脱出していた急降下爆撃機は撃ち洩らしたようだ。電探室からは「残敵数四十以上しかし後方へ大きく拡散中」と伝えてきた。
「准尉」
息を切らして今井大尉が言った。
「B群をやります。」
砲撃が切れ目無く続いた上に波浪のせいか砲撃の振動が激しいために思念波増幅装置は気まぐれな部品損壊が頻繁であった。補修に次ぐ補修の繁栄さは今井大尉をてんてこまいにし、彼はシャツからズボンまでぐっしょり汗だくのまま測的所からの指示を受けたその電話機を片手に持ったまま「黒い椅子」の伊吹に語りかけた。
### はい ###
 伊吹は精神遠隔感応で返事をした。それが一番確実で早い意思通達の方法である。全艦の様々な情報を体全体で感じつつ、今なお続く砲撃への下準備で彼女の頭脳は忙しい。
 A群は若干避退し編成を取り戻すのに5分以上はかかるだろう。B群は伊吹の北東側からやってくる。艦隊はやや東へ転舵し、各艦一斉に砲塔を左舷後方へ向けた。その深く静かな水圧ポンプの作動音と共に自艦の重高角砲塔がぐるりと左手方向へ素早く回って行くのは、伊吹にとっては腕を振り回すような感覚だった。長大な”腕”は連続射撃のため高温に焼けて、まだ密度が低い雨粒がそれに当たるとしゅっしゅっと一瞬に揮発する音が聞こえる。
 波浪はこれまでになく高さとうねりを増してきて、文字通り疾風のごとく強い気流が雨雲の暗い底を吹き流してゆく。力を増してきた強風は高波の頂点を蹴飛ばして白い飛沫を吹き上げるようにもなって、砲身に当たるのは雨粒だけでは無いだろう。艦首の錨鎖甲板は青波を頻繁に被るようになり、一番砲塔直前の両舷二基の一〇サンチ連装高角砲は、まともに波を被るのを避けるため艦尾方向に砲身を俯角で向けて、今のところ対空射撃を諦めていた。
 伊吹は、精神を強く集中しないと波浪に自分の体が持って行かれそうになるのを感じていた。スタビライザーによる減揺効果はまだ保たれてはいるが、もう少し酷くなれば破損の恐れがあるのでそれを畳まざるを得ない。そうなると彼女は強制的に安定を保つことは出来ないことになるから、当然射撃にも大きな影響が出る。これ以上酷くならないことを祈るか、あるいは敵機の攻撃ができないほどに酷くなってくれるか、どちらかを祈るのみだ。しかし、艦橋の水銀柱はなお下がる一方ですでに九百六十ミリバールを切る勢いだったから、そんな祈りは徒労に終わる可能性が強かった。
 艦体の挙動を感じるくらいだから、やろうと思えば伊吹は念動力で舵装置を操り、自由に操艦も可能だった。ただ、戦闘中の今はそれよりも砲撃コントロールに徹底集中しなければならないから、他のことまでは考えも及ばなかった。もちろん現実には、舵を取っているのは操舵長であり、その操艦命令は艦長の手の内であった。信頼できる艦長隷下乗組員一同の存在は、伊吹の命の泉であり、2度の連合軍の攻撃を撃退したことでまた乗組員は、今や艦の守護神たる伊吹に絶大なる信頼を寄せている。 伊吹は、最も重要且つ必要不可欠なものであることは「信頼」する乗組員達と渾然一体となって行動をすることであることをよくよく理解していた。その「信頼」が、心おきなく非常に煩雑な三式弾の信管起爆に専念出来る余裕を彼女に与えてくれている。
 「信頼」、そう今の彼女に絶対必要なのはそれが生み出す余裕であり、それは精神的にも肉体的にも伊吹の最大火力を生む要因と言えた。
 彼女は既に巡洋艦「伊吹」自体でありやろうと思えば全砲塔を動かすことも機関をフルパワーにさせることも、舵を動かすこともできる。しかし、乗組員無しでのそのような行為は、「伊吹」の巡洋艦としての性能をフルに発揮出来ることとは剰りにも遠い。複雑で強大な機関をメンテナンスするのは強い念動力を扱えるとはいえ伊吹には出来ないし、電探や射撃盤のような繊細且つデリケートな精密装置を一人で扱うのは更に無理な話であり、まして戦闘の全体を把握し地獄への奈落に落ちぬように細やかな配慮と大胆な決断をするのは高度な指揮官としての能力が必要である。
 そしてもう一つの「信頼」は彼女の艦としての、メカニクスとしての信頼性である。が、これには若干の問題があることは否めなかった。
 陽炎型駆逐艦用の気缶を利用して圧力を10%ほど増している急造の機関ではあるが、非常に堅牢で全く今までトラブルは出ていないとは言え、過負荷をかけ続ければどのような結果になるかは、識者には火を見るより明らかな事実だ。機関が故障する。それは戦闘中には死を意味する。
 更には数多くの精密機器の脆弱ぶりがある。砲撃中の艦橋は防炎板でほぼ盲になっていて操艦と艦隊運動は電探と他艦との電話通信に頼っている。電探はこれまでも強い風雨にさらされて、甚大な損壊を受けたり、回転装置等や素子に故障が出ることがあった。今、とりあえずは何事もなく動いているというのも、ほぼ奇跡的なものだとは誰もが良く認識しているものであった。電探室はいまもっとも華やかな部署であるが、何事かあれば一番人に恨まれる損な仕事場でもあった。そして各種砲撃指揮装置や射撃盤、伊吹の命綱とも言える思念波増幅装置などこれらの電子機器、電気機器類は技術者がその力を最大に発揮して見事なまでに構築した素晴らしい技術の結晶ではあるが、何度も言うのが憚られるが残念なことに実に脆弱であり、その複雑怪奇で繊細な機械類はいつでも機嫌を損ねて、肝心な動作をサボタージュしようとした。今、ほぼ全ての機器類が奇跡的になにも問題を生じずに戦闘出来ていることは、八百万の神に感謝するしかない。もちろん、その「何の問題も生じない状態」「奇蹟」は、それぞれの部署で担当する技術者たちのなんとか機能を万全にしようとする意気込みと高い技術力に支えられてのものである。人の手による国を救おうという意気込みと努力があって、神は初めて完全を与えてくれるのを忘れてはいけないだろう。
 重高角砲の激しい砲撃の最中、暗く赤色灯が点る羅針艦橋に電探室からの報告は間段無く続いた。
「A群、残敵五十以上 距離十四」
「敵編隊B群分裂しました。4つあるいは5つに分散。」
 防護板の横に1cmほどの幅で一条入れられているスリットから二番砲塔が左舷後方を指しているのを渡邉はちらりと確認した。砲撃時、そのあまりに凄まじいブラストはさほど丈夫ではない上部構造物を破壊することも躊躇無いものだった。前部の砲塔は故に後方射界は制限が掛けられておりそれは軸線に対して百度までとされていたし、後部砲塔は前方へ同じく百度までとなっている。故に艦隊はB群を迎撃する態勢を取るために一時的に舳先を真東へ向けていた。
「撃ち方はじめ。」
森下艦長がおもむろに号令すると数秒して再び強烈な衝撃を伴って轟音が響いた。A群迎撃時と同様ではあるが南からの強風の影響を加味して射点は大きく東寄りに行ったため、虚空に向けての射撃になった。砲撃を行うと後は伊吹が次々に起爆するのを淡々と電探からの報告を待つのみである。それは妙に静かでたかだた数分の間のことだが、妙に間延びした心を凍結するような冷たい感触の時間であり一秒がまるで一分のようにもなり、戦闘結果が報告される時は身を切られるような緊張感と重圧感を味わった。
「敵機五十以上残りました。分散し後退の模様。距離12 北東方向で大きく散開。」
 砲煙は右舷から吹き付ける強風で思いの外流されて消えて行くのが早かった。それが晴れるのを待って、左舷のハッチ近くの防護板には縦十五サンチ横三十サンチの長方形をした蓋附き小窓を素早く開き、福井少尉はそこから簡易測距装置附きの双眼鏡を使って砲撃の合間合間に各艦との間合いを計った。左舷には僚艦「富士」が見えて、素早く測距すると、ぱたりと鋼鈑の蓋を閉め背後に振り返って明快な声で報告する。
「「富士」左舷確認、方位090 距離9」
 渡邉副長はうなずき、唇を軽く噛み締め両手の拳を固め窓枠に寄りかかってその上に掲げられている速力表示計か時計を見つめている。艦橋背面を向いた海図台では、脇田航海長が腰に右手をやって、航路を書き込む慶賀野少尉を見つめている。よく見ると慶賀野の手は震えているようだった。と、再び轟音が鳴り響き、二斉射、そして三斉射、そして四斉射と続いた。四斉射が終わると警報ブザーが鳴り、「砲撃終了」と川村砲術長が高声器から告げた。
「トップ方位盤へ繋げ。」
森下はそう命じるとつかつかと自ら速度通信機の横にある艦内電話を取り上げた。
「砲術長、再攻撃可能か。」
『大丈夫です。』
「このまま再度B群を撃つ。準備でき次第直ちに砲撃開始せよ。次いで艦を回頭し南西に向けるから、A群も再攻撃しよう。』
『わかりました。すぐ再砲撃、開始します。』
「通信兵、後部指揮所へ繋げ。」
「つなぎました、艦長。どうぞ。」
電話機の切断ボタンを押してリセットするとすぐに呼び出し音が鳴った。
那須高射長か。再砲撃の後、右砲戦で高角砲群射撃用意。A群は主砲迎撃はあまり期待出来ないだろう。」
『艦長、了解です。頑張りますです。』
「頼む。」
森下は元気な那須の声に小さく笑みを浮かべた。いつでも彼の男気溢れる声を聴くのは楽しい気分にさせてくれる。電話機を置くと同時に主砲が再び射撃を開始した。まにあうかどうか。一斉射、二斉射。
「「満月」に連絡せよ。『各艦に告ぐ。対空戦闘開始。以後、自由航行とす。被弾するな。』」
森下の顔には決然たるものが浮かんでいた。
数秒おいて再び高声器が報告する。
「A群十二個編隊確認、距離7000メートル 南西方向から来ます。速力二百ノット以上 急速接近中。」
三斉射目が轟音を放ち再び強烈な振動を感じた。
「副長。四斉射目終了と同時に艦隊を南へ向けるぞ。各艦に連絡せよ。射撃終了と同時に右回頭、隊列方位180。」
「艦長、ちょっと待って下さい。」
渡邉が怪訝そうな顔で伝声管を掴んでいる。なにか聞き耳を立てているようだ。
「弾道管制所で何か異変があったようです。」
「異変とは?」
「良く分かりませんが、突然叫び声が。」
「どういうことだ!?何だというのだ?!」
突如、高声器から川村砲術長の割れた声が鳴り響いた。
『艦長!!弾道管制所が応答しません!』
「なにっ?!」
さすがに命を賭ける戦闘の最中のトラブルに森下も目を見開き声も荒げた。
「伝令!下へ、いや、副長。行ってくれ!」
「はい!」
渡邉はその場にいた水兵二名をつれて床面内部ハッチを開くと飛び降りていった。
「脇田君、操艦と艦隊指揮を頼む。電話を弾管制室へ繋げ。」
脇田は緊張した顔で海図台からさっと身を引いて森下の横へと移動した。
弾道管制室、叫び声、連絡途絶。
これらのキーワードは、すなわち「伊吹」の生命線に致命的な問題が生じたことを表していた。

 十四時十七分。
 B群に対する第三斉射でそれは起こった。伊吹はもはや事務的にめまぐるしい対空射撃をこなしていた。美しい天上、紺碧の空にたなびく、たくさんの かなとこ雲と巻き雲。氷の粒を含むそれは時折虹色に染まって幻想的な世界を催してくれる。そして分厚い雨雲による雲の海。その下は文字通り雨をもたらすスープのような雨雲と不安定な気流であり不気味な有様であった。更にその下には暗い海上まで四〜五百メートルしかない空間があり、いま、何隻かの軍艦が運命に翻弄されているのだが、三斉射目では高空での炸裂であり、天国的なその空間の魅惑的な背景に一種陶然してしまい、一時、彼女は戦闘を忘れてしまいそうだった。
 少なくともその時までは。
 そう、その時は突然彼女の前に現れた一機のアヴェンジャー雷撃機のコクピットに写った血だらけのパイロットによってもたらされた。
二斉射目の炸裂させた改三式弾が大きな花火のような火の粉を降らすと、三斉射目の初弾から一機の青いアベンジャーが両翼端から炎を吹き上げて雲の中からまるでそれ自体が吹き上がるように飛び上がってきた。アヴェンジャーはやや上空へ何とか飛び上がったが、そのとたん左の翼から何かのかけらがごっそり落ちて行き、それは結局、アヴェンジャーの左の翼そのものだったのだが、いきなり失速して黒煙を撒き散らしきりもみしながら、まるで伊吹の砲弾に体当たりを試みるかのように落ちてきた。目前に迫ったアヴェンジャーは砲弾の直前で更に右の翼が折れて弾けたが、その一瞬だった。
「あっ!!」
 伊吹はそれを見た瞬間、気が遠くなりそうになった。
 血潮で真っ赤に染めたコクピットのガラスの中では、なにか人の形をしたものが居た。左半身は無惨に焼焦がされて、右側はズダズダに服が破れて何か臓器が飛び出している。それを必死に押さえる"手"の無いただの棒になった右腕、左手はおかしな角度で折れ曲がっているにもかかわらず必死に操縦桿を血糊まみれになっても押さえつけており、それはもはやコントロールを失った今では何の効力も発揮しないことであるのに彼は全く考えつかないようだった。その大部分の飛行帽を飛ばされた鬼のような恨みごもった顔には血を滲ませて真っ赤になった右目と深い奈落の底のようにえぐり取られて、血液がどくどくと涙のように流れ落ちている左目があった。そしてその背後の副操縦席では、様々なコード類を絡ませて頭のない真っ赤なオブジェと化した飛行服がぶらぶらと空中に自由落下を続けている。
 その恐ろしい光景から逃げ出そうと、伊吹は必死に念視を他に向けようと努力した。しかし、そうしよとすればするほどそれを見つめてしまうのだ。彼女の認識時間の相対的遅延効果はここでは逆に不利に働いた。本当に一瞬ではあったが、もはや飛行体とは言えないぐちゃぐちゃのスクラップに閉じこめられたアヴェンジャーとそのパイロットの地獄の一部始終をその拒否反応とは裏腹に直視してしまったのだ。三斉射目の砲弾は未だに起爆されず、既に下降線を辿りつつあり、タイミングを大きく失っているのは明白だった。それでも最後の力を振り絞って、伊吹は信管を作動させた。目標を著しく外れた砲弾は炸裂したが、虚しく何もいない空間に煌めく焼夷弾の花火を打ち上げて見せたのみであった。
『准尉!伊吹君!』
今井大尉の遠く呼ぶ声に気が付くと彼女は体から来る悪寒と震えが止まらなくなっている自分にも気が付いた。
「どうしたのですか?なにがあったのですか?」
大尉は優しくしかし急いて問いかけてきた。
「大丈夫です。貴女は安全な本艦の装甲されたこの管制室にいるのですから。」
「わたしは?」
「たった今、第三斉射を起爆したけど、これは成功しませんでした。砲撃は電探のみで続けていますが、時限信管なので想ったような効果はでないですね、やはり。」
「ごめんなさい、う、う、本当にごめんなさいっ。」
「黒い椅子」から身を大きく起こすと、伊吹は項垂れ面を両手で覆い、突然、大声で泣き出した。
今井は伊吹の額に惨めにぶら下がった精神感応器を両手で支えながら取り外し、それを椅子の背後に格納すると嗚咽する伊吹の正面に跪き、その小さな方をふんわりと優しく包むように両手で抱いた。
「大丈夫、大丈夫。この巡洋艦は少しぐらいのことではびくともしないですよ。全火力は生きていますし、どこもかしこもまだ何も攻撃すら受けていないのですから。それにしても一体何があったのか。いえ、ま、それは言わなくても良いです。今は、まず、その涙を拭きましょう。さぁ、立てますか?」
今井は上着のポケットからハンカチをを取り出した。しかし小さく頭を振って伊吹はそれを受け取らなかった。あきらめて今井はなるがままに任せることにするしかなかった。悲しみを振り払うには時間が要る。今井には彼女が垣間見た事件がなんであったのか、少し理解出来るような気がしていた。そう、間違いなく、彼女は敵の惨状を見てしまったのだ。それは万が一の可能性であり、もちろんその場合の対処を彼は作戦として方法を知っているが、今、それを行使するかどうかはどうにも迷いがあった。特B剤。それは、午前中に交わした高柳少佐の言葉にもあったのを想い出す。使うか?使わずに何とかするべきか?
 と、ハッチ扉が開いて怪訝な顔の渡邉副長と白衣の新実軍医と看護兵二名が現れた。
「軍医長。」
「どうしたのかね?艦長直々の出動要請だし、オマケに副長も来とるし。」
 しまった、伊吹を想うあまり司令部への報告を怠ってしまった。とはいえ、恐らく金山兵曹が代理で報告したのであろう。問題にはされていないようだ。
「とりあえず、伊吹君をこの金庫に色キチガイの蕎麦だらけのおかしな部屋から連れ出したいんだが。」
 つかつかと伊吹の前に進み屈んで、伊吹の様子を窺うと新実は全然笑いも含ませずにそう言った。
「ここは彼女のような御姫さまには誠に相応しくないからねぇ。」
「軍医長。よろしくお願い申し上げます。このままでは。」
「わかっているみたいだね。よろしいよろしい。伊吹君、ちょっと脈を診るからね。」
 新実は今なお顔を覆っている華奢な伊吹の左手を握り、軽く強制的に顔から引き離した。伊吹の顔は、涙に腫れていた。左手は案外素直に新実に委ねられたが、残った右手はそのまま両目を押さえてしまった。
「大丈夫だよ。熱も無いし脈も正常だ。体は問題ないようだし。どうしよう、伊吹君、ちょっと医務室まで行かないか?」
新実は快活に語りかけた。返事はなかった。
「軍医長。しばらくこのまま様子を見てみてはいかがでしょうか?」
渡邉がおずおずと切り出した。
「本艦は戦闘中です。しかも天候も海上も悪化したままです。このままで往くと敵機攻撃と悪天候の餌食になるのは必須ですし、この部屋は確かに美しい姫には申し訳ない場所ですが、本艦で一番装甲で保護されている場所の一つでもあります。今は、彼女の復活を期して、少し精神的に落ち着くのを待ちませんか。」
「そうだね。副長の言う通りだね。どうしようかな。んじゃ、一旦私は医務室へ戻るね。看護兵を一人置いて行くから、なにかあれば彼に。」
「ありがとうございます、新実軍医長。」
 渡邉はぱっと最敬礼した。そして今井に向き直って
「今井大尉。君も少し休息したまえ。これから伊吹君に頼らずに楽しい対空戦闘をするのに、体力が必要かもしれない。」
ニヤリと笑って渡邉は今井の肩をぽんと叩いた。
「ありがとうございます、副長。」
「とりあえず、藤原准尉を大切にしてあげてくれ。これは恐らく艦長の御意見と思う。では、後は頼む。」
渡邉は再び敬礼し、他の水兵たちも敬礼を返すとしげしげとそれぞれの顔を見つめて、きびすを返した。
「じゃ、私も。」
新実も軽く敬礼をして、渡邉の後を追った。が、ハッチを出たと思ったら顔だけをそこから出して、
「今井大尉。後でよいから私の私室に来てくれ給え。ちょっと人体実験をしたいんだ。」
そういうと飄々と新実は去っていった。今井はその後を敬礼して送った。
 伊吹は静かにまだ椅子に体を委ねていた。制服が乱れて白いふくらはぎが大きくはだけている。近づいてみると伊吹は相変わらず右手甲を両眼に当てて、なにも見たくないというように眠っているようだった。今井はそっと伊吹の柔らかな体を持ち上げて、「黒い椅子」に改めて座り直させると、背もたれと足置きを調節しリラックス出来るように平らにしてあげた。そして右手の指でその黒く長い髪の毛をさらりと梳くって体が髪の毛を引っ張らないように顔の両脇に分けてあげた。
「なにがあったのか、よほどのことですね。」
背後から櫻井一等兵が話しかけてきた。今井はしかし、なにも答えなかった。