〜消えぬ記憶((「帝國軍艦 伊吹」外伝))

 がやがやと黒い服の親戚一同が一杯の大部屋で、お線香の良い香りに鼻をくんくんさせていると、隣に座っているお母さんの抱える寝ていた赤ん坊の弟が、突然泣き出した。でもお母さんは困った顔もせず、すっと立ち上がり、弟をあやし始めた。すると直ぐ下の4歳と6歳の二人の妹がお母さんの足下に駆け寄って顔を上げて、弟が泣くのを心配そうにしている。
「元気が良いな。泣く子は育つと言うから彼はお父さんに負けない立派な男になるだろう。今井家も安泰だねぇ。そこいくと、俺は孫はおろか子供も居ないからなぁ。」
腰がちょっと曲がった福井おじさんは、それでもお酒で真っ赤になった顔をくしゃくしゃにして笑って言った。でもちょっと寂しそうだった。
「摩耶ちゃんはいくつだっけ?」
そう言うと、正面に座っている左片目に黒い眼帯をしてるおじいさんも、コップのお酒をぐびっと一口飲んで私の顔を見た。
「10歳です。」
「そうかぁ。もうそんなに大きくなったんだ。俺たち爺さんは時間が止まっちゃったからねぇ。」
コップを花梨の御膳に置くと、慶賀野さんというそのおじさんは、か細い体をしならせて、じっと祭壇の方を見つめた。その少ししか残っていないコップに、斜めから御膳越しに福井おじさんが、一升瓶のお酒を瓶の底を軽々持って、お酒をなみなみと差し注いだ、
「あの時の戦友も、もうおまえと二人きりだな。」
「あ、ありがとうございます。」
すっと慶賀野さんは右手を右耳にかざして小さく敬礼をした。
「最後に彼女に会えただけでも私はもう思い残すことはありません。」
しみじみと、けれどもくったくない明るい感じで慶賀野さんが言った。
「んなことを言うんじゃない。伊吹君に怒られるぞ。」
福井さんは真顔で真剣に怒った。
「俺たちはあの時からどんなことがあっても生き延びようと誓ったんじゃないか。」
「ああ、そうですね。」
慶賀野さんは頭を掻いて上目遣いで面目なさそうに詫びたところで、福井さんはすっと手前のコップを差し出し、「飲め、もっと飲め。」と本当に真剣に言った。
「福井さん、だめだめ。だめであります!」
隣で見ていたお父さんが、見かねて福井さんの手を制止し、その手のコップを軽く奪ってしまった。
「慶賀野さんはまだ本調子じゃないそうであります。手術して半月ですよ。」
「大丈夫だよ、今井君。今日は飲ませてくれ。」
慶賀野さんは笑って、お父さんの奪ったコップを取り返した。
「君のお父さんは、本当に曾祖父さんによく似ているな。くそまじめだ。」
福井さんは私の顔をじっと見てにやっと微笑んだ。
「曾お祖父さんって私が生まれたときには死んじゃって居なかったから、よく知らないんです。」
私は上目遣いになって照れた。
日頃からよく、お父さんは人に「特に曾お祖父さんによく似ている。」て言われているので、私は曾お祖父さんはお父さんのような優しい人だったんだと信じている。でも、たいていの人はそう言う曾お祖父さんではなくて、「超がつくほどの真面目が服を着ている」というような感じでそれを言う。
「我々の兄貴分だったからね。あの艦でお会いしたときから本当に尊敬できる方だったよ、摩耶ちゃん。」
「もう15年も経つんだなぁ。今井さん亡くなって。」
「とにかくいい人だったな、本当にいい人だった。でもなぁ。」
「どうしたんですか?その”でも”って?」
慶賀野さんはカメみたいに首を突き出して、片目を福井さんに向けた。福井さんはぷいっと曾お祖母ちゃんの眠っている木箱があるほうを見て言った。
「おかげで、俺は冥土にゆくまでけっこ。。。。。。で。。な。。。。。。。。。。」
福井さんの独り言は最後の方はなんて言っているのか良く聞こえなかった。慶賀野さんはそんな福井さんを笑って見ている。
「今でも好きなんですね。」
そういうと慶賀野さんは、福井さんの握るコップに一升瓶の中身を注いだ。負けじとなみなみと。福井さんは注がれるお酒をじっと見つめて、一言二言なにか怒ったようにつぶやくと、ぐぃっと凄い勢いでそれを飲み干した。
「相変わらず良い飲みっぷりですね!」
「お前みたいな軟弱モノじゃないからな。卒寿を過ぎたって一気飲みくらいまだまだ出来るぞ。」
そう言ったとたん、二人は一緒にガハハと大笑いした。何が面白いのか私にはよく分からなかったけど、お二人は楽しいそうにも悲しそうにも見えるのが不思議だった。祭壇の上に飾られた写真の曾お祖母ちゃんもニコニコと微笑んでいる。
私は思念波を曾お祖母ちゃんに送ったら送り返してこないかなと、変な期待を込めて、桐箱のなかで安らかな顔をして眠っているおばちゃんへ『何で福井さんも慶賀野さんも笑っているのに悲しそうなの?』と質問してみたが、この間まで直ぐ返してくれた曾お祖母ちゃんからの思念波は戻ってこなくて、頭の中にぽこんと変な音が響いただけだった。それは曾お祖母ちゃんの返事だったのかも知れない。曾お祖母ちゃんは九十年の時間がどうのと最近良く頭で考えていたようだったのを思い出した。人は最期にぽこんという音で消えてしまうのかな。
福井さんが急に立ち上がった。
「ちょっと便所へ。」
そう言うと、ちょっと足取りをふらつかせながら福井さんは戸口に向かってあるって行ったが、長御膳の端を引っかけて御膳の上のお酒をひっくり返してしまった。
「ああ、すまんすまん!」
幸い誰も被害を受けなかったけど、仲居さんが一杯出てきて福井さんのズボンやらテーブルやら酒びだしの畳の上をきれいに拭き上げだしたので、私もなにか手伝えるかと思って手元のテーブルふきを握ってそこへ行った。福井さんは憮然としてぶつぶつと独り言を言いながら、トイレへ向かった。
「あら?」
私は福井さんが歩いて出て行った戸口に一枚の紙きれが落ちているのに気がついて、急いでそれを拾いに駆けつけた。
その紙切れは、普通サイズの古い写真だった。以前、曾お祖母ちゃんの持っていた写真のように古い写真を新しく焼き直したモノで、一人の可愛い少女とその後ろに大きな筒が突き出た、それお父さんの乗っているイージス艦の大砲って言うモノに似ているけどものすごく大きなもの、が写っている。右下に年号とまだ習っていない難しい漢数字、それは日付だろう、それから”軍艦伊吹艦上”と書いてある。
写っている少女の姿は、紛れもなく若い頃の曾お祖母ちゃんだった。
「あ、福井さんはこんなモノ持っていたんだ。」
後ろから慶賀野さんが肩越しにのぞき込んで写真をさして言った。
「懐かしいねぇ、おお!!こんな鮮明なのは初めて見たな。伊吹さん、本当に可愛いなぁ。」
「おじさま、曾お祖母ちゃんのお話聞きたいな。」
「あはは、おじさんも福井さんもみんな伊吹さんのファンだったんだよ。一緒に仕事をしたんだ。ほら、この後ろに写っている軍艦見たことあるだろ?」
そう言われてみると曾お祖母ちゃんのアルバムにもこれに似たような軍艦の写真がいっぱいあるけど、どういうわけかあちこちに白や黒で塗りつぶしがあったり、遠くの写真が多くて、そう、慶賀野さんに言われなければ分からなかった。軍艦について曾お祖母ちゃんに聞くこともなかったが、確かにお爺ちゃんは海軍の提督だったと聞いているし、あまり多くは話してくれなかったけど、曾お祖母ちゃん自身も昔、曾お祖父さんと軍艦に乗って海軍で勇敢に戦ったんだと胸を張って少しだけ話をしてくれたことがあった。
「この艦が我が海軍の誇る大型対空軽巡洋艦 伊吹だよ。これで私たちは一緒に仕事をしたんだ。一緒にね。伊吹君は凄い力があったからなぁ。彼女が居なかったら僕らは皆海の藻屑になっていたろう。今の我が国が平和なのは、みんなで頑張って戦ったことの中でも特に君の曾お祖母ちゃんとお爺ちゃんの力に負うところが多かったんだよ。」
慶賀野さんは片目を大きく見開いて、天井を見やって、指を指した。
「左舷十五度上空より敵急降下爆撃!撃て撃て!」
「貴様、何馬鹿やってんだ?」
急に大きな声で誰かが呼んだので、ふと後ろを見ると福井さんが笑って立っている。
「あ、福井さん。これは眼福でした。」
「あああ、なんでこれがここに?!」
福井さんは顎を落として、大あわてでお酒の酔いも覚めたような顔で私の手の中の写真を見つめた。
「おじさまが戸口で落として行ったんで拾いました。」
私はにこりとして言い、両手を添えて写真を差し出した。
「ありがとう。やー、恥ずかしいモノを見せてしまったなぁ。」
「福井さん、素晴らしい写真をお持ちだったんですねぇ。今度、焼き増ししてください、女房に内緒で。」
「馬鹿野郎。。。。ま、でも気持ちは分かるから、あとでスキャンしてメールしておくよ。」
「お願いします。機関科の長門君や射沢君あたりにも回してあげよう。」
「時効だろうから、好きにしろ。でも大切にな。故人に申し訳ないからなぁ。」
「分かってますよ、僕らの伊吹さんですもの。」
「ああ。」
「それにしても本当に良くそんな良い写真をどぉこで。」
「はは、これは俺のカメラで撮ったものさ。古いカメラでな。乾板だったんだ。検閲をされる前に乾板を本の間に挟んで持ち帰ったんだ。」
「それなら自分にも分けて頂きたかったなぁ。」
「馬鹿言え、こんなもの見つけられたら大騒ぎだろう。事実、印画紙に焼いたのだって実は戦後なんだから。」
福井さんは面白そうに言った。
「懐かしいですよ。ホントに。彼女は本当に素敵だった。好きだったなぁ。」
「俺もさ、それとなく京都の実家に誘ってみたりしてね。結構、今井さんと一緒だけど遊びにきてくれたもんだ。うちの漬け物は最高だからな。ずっと、お中元お歳暮は欠かさなかったよ。伊吹さん喜んでくれる顔がね、目に浮かぶのさ。」
「我々も若かったですよねぇ。」
「ああ、ホントにね。」
「あれからもう一世紀近くなるんですねぇ。」
「そうだね。」
「あの樺太からの乗組みではすでに福井さんと私くらいしか士官では生き残っていないっちゅうのも、なんともはや。」
「十分長生きしたじゃないか、お互い。」
そう言うと二人は、しばらく黙り込んでしまった。そして二人とも判を合わせたように同時にお酒の入ったコップを掴み、同時にそれを飲み干したとたん、抱き合って、おいおいと泣き出した。周りの人もびっくりしている。でも、だれもなんにも言わずにそっとした。



私は、曾お祖母ちゃんの最後の会話を思い出した。それまで色んな機械がくっついていた曾お祖母ちゃんは、それらを全部はずしてベットに寝ていた。

『摩耶は、ばばと同じ力を持って生まれた唯一の家族だけど、けっしてそれを悪いことに使っちゃいけないよ、良いネ。約束ね。』

あまり苦しそうにせずに微笑んで私のことを心配してくれた。

そうして、最後、曾お祖母ちゃんは、死ぬ間際にこう言ったんだ。

『どんなに絶望しそうでも必ず何とかなるって希望を捨てちゃいけないよ。忘れないでね。』





福井さんの写真の中の曾お祖母ちゃんは、どんな事をしてきたのだろう。とうとう、私は曾お祖母ちゃんの口から直接それを聞くことが出来なかったなぁと、ぼんやり残念に思った。


*1

*1:2/23プチ改訂